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院長 | 松岡 良一 |
保江先生と矢作先生の対談本、「ありのままで生きる」という本を読んだ。
自由な考えの保江先生と、聖なる考えの矢作先生が、同じテーマについて、話している気がした。
本当は、みんな赤ちゃんのように無邪気に生きると伸び伸びして楽しいと思う。
ここは、地球の日本という国。
法律があり、常識があり、道徳があり、みんなの心の中に観念があり、ルールがある所である。
大人は、赤ちゃんが大きくなるにつれ、いろんな事を教えようとする。
それは、何も知らないから、教えてあげようという気持ちである。(悪気は、ない。)
大人になって、みんないろんな悩みを持つ人が多いと思うが、その中のひとつは、本人の本当に望む事と、
周りのルールに合わせなきゃいけないという心との葛藤があると思う。
今、私の思っている事の判断基準は、、果たして、本当に、私が心底望んでいる事なのかを、追求していくと、
どんどん、心が楽になる。
赤ちゃんの無邪気は、みんなから、愛される。
大人の無邪気は、ルールが正しいと思っている人から見れば、我があるようにみえる。
善という考えで、悪は、間違えと思っている人と、善というのが、好きな人がいると思う。
赤ちゃんの無邪気さを持つ人と、聖なるものを好む人が出会うと、そこに、何を思うのだろうか?
純粋無垢な心を持った人が、このルールの多い世の中で、一生懸命、誠実に生きている人に出会い、心を打たれたのかもしれない。
一生懸命誠実に生きている人が、純粋無垢な心の人に出会い、肩の力を抜いてもいいだよという事に気付いたのかもしれない。
もし、全ての事が分かっていたら、私の行動が周りにどう影響するか?私も周りも幸せにするには、どうしたらよいかが分かると思う。
もし、見えている範囲が狭いのであれば、ただ、目の前の事に、一生懸命力を注ぎ、それを、没頭するくらいまで行い、
一日の中で、没頭する時間を少しづつ、増やしていけば、いつのまにか、幸せしかない状態になっていると思う。
日曜日の、冠光寺流の稽古に、沖縄空手の銘苅先生が、参加されてくださった。
膝相撲という、(膝をつけた状態での相撲)、のを、先生とお手を合わせる事が出来た。
体格的には、私の方が、大きいのだが、ひっくり返されてしまった。(何で倒されたか,分からない。)
懇親会の席で、銘苅先生とお話が出来た。
先生が、体重を下に、落として、そのまま、拳を真っ直ぐ打つと、相手は、ふっとぶという話だった。
寸止めの本当の意味は、当てたら、死んでしまうので、寸止めとい事らしい。
先生が、話してくれたのは、だから、もう少し出来るように、なると、戦う前から、お互いの実力が分かり、参りましたとか、
争わなくても、話がつく状態になると教えて頂いた。
更に、進むと、赤ちゃんのように、敵がいない状態という話をして頂いた。
よく、無敵という言葉は、最強の意味で使われるが、本当の無敵は、敵がいない状態の事だと思う。
みんな愛とか、好きという気持ちを、持っているが、あの人だけは、ダメとか、嫌いとか、という気持ちもあると思う。
無敵は、みんなから、愛される人だと思う。
銘苅先生は、冠光寺流の師匠に、会いたかったと話してくださった。
最近、思うのは、世の中には、それぞれ、自分の道を追求している人達がいる。
そこに、触れてみると、ただ純粋にそれだけを、求めている心が見える。
ただ、ただ、心を込めて、一生懸命頑張ると、そのうち、没頭した状態になる。
そうすると、今まで、こうだと思っていた事自体が、考えに過ぎない事に気づく。
どんな事でも、少しでも、今に取り組めば、人生は、変わる!
最近、考えている事は、私が私を喜ばせる為には、どうするか?
今まで、努力、根性だけで、頑張ってきて、そのくせ、私に対しては、粗末に扱ってきたので、思いっきり、優しくしてあげたいと思う。
親友の山ちゃんと、高校で出会ってから、30年になるという事で、今年は、30周年記念をやろうと話をしていた。
昔は、週末に、パチンコとか、競馬とか、ボーリングとか、ゲームをやったりしていた。(カラオケは、スーパー音痴なので、禁止になっている。)
その頃は、それで、熱くなっていて、楽しかったと思う。(ギャンブルは、殆ど負けていた。)
日々のストレスを、一緒に遊んで発散していたと思う。
このストレス発散に、いいのが、本人にとって熱中、没頭、無我夢中になれる事として、楽に出来る、遊びをやっていたと思う。
そんな事をして、一年の終わりに、今年の反省会をして、、来年こそは、こうしたいという話をしていた。
今は、それが、スーパー銭湯と、ご飯に変わっている。
昔は、彼女が欲しいと言っていた山ちゃんが、今は、時間がなくて、大変と言いながら、家族に囲まれて、幸せなのを、知っている。
それは、山ちゃんという意識が、個人という意識から、家族というものが、山ちゃん自身の意識になったからだと思う。
昔、山ちゃんに対して、山ちゃんの為なら、死ねると言う気持ちをもっていた。
その気持ちが伝わっていたのは、嬉しかった。
昔からの松ちゃんを見てきている山ちゃんは、カッコ悪イところ、ダメなところを一杯知っていると思うが、よく、親友として、付き合ってきてくれたと思う。
世の中は、損得だったり、優劣だったりで、人と付き合っている人もいると思うが、これからも、本音の言える親友として、
今日、白衣にアイロンをかけていて、思ったこと。
心を込めてやっていると、段々、その事に没頭するようになった。
この没頭が、癒しになる。
山登りをしていた時に、一番よかったのは、登っている時だった。
その時は、きついはずだが、その登るという事に没頭していた。
この没頭が、癒しになった。
山登りしている時、普段の生活では、大変な時期も、あったと思う。
でも、この山登りをしている瞬間は、大変という事は、考えていなかった。
ただ、登るこれだけを考えていた。
没頭していた。
これが、癒しになった。
そうして、また、頑張る為の原動力となった。
山登り、アイロンかけ、ただ、その事だけに没頭する。
これが、目の前の事をやっている、今という瞬間を生きている事だと思う。
この瞬間、瞬間、を生きるというようにすると悩みは、なくなる。
目の前の事を、大切にして生きていますか?
と私自身にいつも、問いかけていると、今という状態でいられるのかもしれない。
それが、流れに身を任せて、物事がスムーズにいく状態の気がする。
私のコダワリが、現実を創り、コダワリが無くなれば、そこには、ただ流れがある事に気づくのかもしれない。
私が問題を創り、苦しんだり、悩んだりしている。
であるならば、私が、幸せを創り、楽しんだり、喜んだりも出来ると思う。
どんな選択も、私自身次第だと思う。
私は、今という瞬間に生きる事で、頑張ってきた私自身を楽しませたい!喜ばせたい!と思っている。
ここ最近出来るように,なった事は、ちょっとした事を、面倒くさがらずやれるようになった。
最近、心がけている、直感で動くというのを、更に進めて、ぱあっと浮かんだちょつとした事を、メモしてその日のうちにやりきるようにしている。
今までは、どうしても、絶対したいという事は、全てやってきたけれど、普段のちょつとした事は、まだ、、いいかとか、後でとか、時間がたってから
やっていたりした。
そのちょつとした事は、私の中では、労力としては、十段階の二位なのだけれど、つい,面倒くさいなと思ってしまっていた。
昔、ある若い先生が、患者さんにマッサージするのをしたくて、掃除や、準備の事が疎かになっていた時、
彼は、仕事に優劣をつけていたので、彼に仕事に大きいとか、小さいとかは,無いんですよと言い、ひとつ、ひとつ大事にしなければダメですよ。
と言っていたりした。
ちょっとした事と思っいる事も、そこに、心を込めると、没頭出来る。
今、その瞬間に生きている。
そうすると、どんな苦しい状況があろうが、その瞬間は、悩む事が無くなる。
面倒くさいと思ってやらなかったのは、私の中に、物事に対しての優劣の判断があるのが、分かった。
本来は、今、この一瞬、一瞬、一瞬を、常に心を込めて行うようにするか、愛そのものの状態として在るが出来れば人生は、楽しいと思う。
掃除をするのを、見ていて、綺麗でなければ、ダメという思いでやっている人と、綺麗が好きだからやっている人がいる。
綺麗でなければ、ダメという人は、そういう考えを持っている(観念)、だから、綺麗にしない人は、許せないという感情を持つ。(その空間は、緊張している。)
同じそういう観念を持つもの同士は、話が合う。
綺麗が好きという人は、綺麗という状態を愛しているので心に余裕がある。(その空間は、ゆったりしている。)
今というこの一瞬を、過去に囚われで過ごすか、未来を心配して過ごすか、心を込めて過ごすかで、人生の豊かさが変わってくると思う。
どんな生き方も、本人納得の生き方ができれば、いいんじゃないかと思う。
もし、今の生活が違うと思うのであれば、本人の出来るちょっとした事から始めてみれば、少しづつ変わっていくと思う。
昔、福島の川島先生のブログで、トイレ掃除の話が書いてあった。
トイレの中を、ゴシゴシ擦っていると、その場所が綺麗になって、他の場所が汚れているのが、目立ってくる。
という話が書いてあった。
どんな事でも、ちょっとの事と思う事でも、なんでもいいから一生懸命やっていると、何かに気づくようになる。
気づくという事が、本人を、縛っていた考え(観念)から、解放し、より、自由にしてくれると思う。
せっかくの人生だから、この日本という平和なのんびりした国で、思いっきり、前のめりに、楽しく、生きていきたいと思います!
日曜日に、道場の稽古の後の、飲み会で、先輩の鈴木さんが、勝海舟の父の勝小吉が、なかなかの暴れん坊という話をしてくれた。
夢酔独言は、勝海舟の父、勝小吉が書いた本である。
この父の影響が、勝海舟にあると思うので、興味が出て読んでみた。
勝小吉という人物は、最初の内は、自分勝手に我が儘放題ばっかりやっていた。
特に、この時代、礼節とか、規則とかで、ガチガチの時代で、この人物は、とんでもない奴という風に見られていたと思う。
喧嘩も竹槍や、刃物とかもあるので、胆力が鍛えられたと思う。
21歳から、24歳まで、父親により、家の座敷牢での生活となった。
この時、本を読んで、道理を学んだ気がする。
この後は、人と相対する時は、正論で話をして、自分の意見を主張したり、道理を分かっているはずだが、つい昔の癖で、ズルさがでたりしたようだ。
小吉に、ある老人が、「世の中は恩を怨みで返すが世間人のならいだが、おまえはこれから怨みを恩で返してみろ。」
と言われ、そのようにしたら、やかましいばばあ殿(小吉にダメだ、ダメだと言っていた。)もだんだんよくしてくれるし、世間の人も頼ってくれるようになった。
小吉は、我が儘で生きてきたが、人の役にたつと、人から感謝され、その喜びを知り、こういう人生もいいなと思ったと思う。
勝海舟は、この自分勝手に生きる父を、見て、反骨心を抱き、それが、原動力となり、父親譲りの胆力が、磨かれていったのではないかと思う。
勝小吉、この人物のいいなと思った所は、良いも悪いも、正直に書いてある事だと思う。
最近、思う、強さとは、気の荒らさでもなく、腕力でもなく、武力でもなく、知力でもなく、経済力でもなく、権力でもなく、
どんな相手でも受け入れる心の広さだと思う。
気の荒らさは、相手を認めれる事が出来ない心の弱さであり、腕力、武力、知力、経済力、権力は、これが、あるから、強くいられるのであって、
やはり、心の弱さの裏返しといえる。
少し前の私は、強さより、心の広さとか、愛の方がいいと思っていた。
今考えると、気の荒らさとか、腕力、武力、知力、経済力、権力の一面だけを、見ていて、その裏の弱さを見ていなかったと思う。
だから、出来るだけ、その人の一面だけを見るのではなく、丸ごと分かりたいと思う。
人を見た時、一番許せないものを感じたとき、その人の中に一番許せるものが、内面にあると思う。
という事は、表面的なコミニケーションでは、お互い、対立する仲だとしても、
腹を割って話し合う事が出来れば、お互い理解しあえると思う。
クローズという漫画を、やっと、整骨院に持ってくる事ができた。
15巻、16巻が家で行方不明になり、受付のみなっしーに持ってくると言ってから、2~3年年の月日が経った気がする。
昔、おじさんの部屋で、この漫画を見つけ、熱くなった記憶がある。
男性ならば、強さに憧れるというというのが、あるだろう。
この漫画は、いろいろその人なりの悩みがあった時、主人公に出会うと、主人公の笑っちやうぐらさの強さが、ガッンと、脳天に響いて、
人によって、真正面から、ぶつかったり、悩んだり、画策したり、していたのが、どうでもよくなり、すかっとして、気分がよくなる所が魅力である。
男性の患者さんは、結構ファンの人が多い。
みんなが今いる場所で、本気のコミュニーケーションをすると、今まで、見えていなかった世界が、お互い分かるようになり、