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院長 | 松岡 良一 |
Blog記事一覧 > 11月, 2014|千葉県市川市行徳駅前 松岡整骨院の記事一覧
保江先生の「唯心論武道の誕生」という本を読んだ。
この本を読んで思った事は、我をなくすという事だ。
男性だと強さに憧れる人は、多いと思う。
どっちが、が強いか?誰が、強いか?一番強いのは、誰か?とか。
沖縄空手の銘苅先生が、寸止めの意味は、当てたら、死ぬからと教えてくれた。
もう少しいくと、戦わずにどちらが強いかが分かると教えてくれた。
更に、いくと、赤ちゃんのように、誰も、戦おうと思わない、敵のいない状態。正に、無敵。と教えてくれた。
みんな、我があると、つい、力試しをしたくなるかもしれない。
知らないと、そんな事、嘘でしょうと思ってしまうかもしれない。
最後の方に、炭粉先生の合気私考というのが、書いてあった。
その中に、「自我による思考さえ納めれば、人の魂とそれにより導かれる心は《善》なり」とあった。
我がない状態だと、相手の我とぶつからないので、感覚としては、空間が私なので、私が動けば、相手が動くかもしれない。
最近、仕事で、患者さんと接する場合において、我のない状態で接する事が出来るようになってきた。
ただ、もし、相手がパンチをうってきて、我のない状態でいれるかは、自身がない。(やりやがったな。そんな事しちゃあ、ダメダメ!)
たぶん、そういう状況は、その空間をお互いが、認識してつくりあげてしまうのだと思う。
攻撃した、攻撃されたという共通認識を持った場をつくりあげてしまうのだと思う。
だから、Aさんが、攻撃するという意識で、Bさんが我のない状態で、空間を支配していたとしたら、
AさんとBさんは、ぶつからず、(意識が違うので。)Bさんが動くとAさんは、その影響を受ける。(Bさんが、空間を支配しているから。)
それを、見た他の人は、Bさん凄いと思ってしまうのかもしれない。
今、私の中で分かるのは、没頭して、我のない状態だと、信頼関係が出来るという事ぐらいだ。
塩田先生の殺しにくる人と友達になれるという境地と、植芝先生と宇宙と一体という境地は、まだ、体感できていない。
私は、私の出来る範囲で、こつこつやっていこうと思う。
現代の日本という国ののんびりした時代に、生まれてよかったと思う。
もし、戦国時代とかに生まれたら、本当に常に死を意識しながら、呼吸を考え、気配を感じ、思考、無意識までも考えなければいけなかったかもしれない。
ただ、そんな時でも、ただただ、相手の為に、我を捨て、一生懸命やっていると、幸せだったかもしれない。
今ひとつ、言えるのは、今に心を込め、一生懸命やって、没頭すると、そこには、幸せしかないという事だ。(実証済み。)
山田鷹夫さんの「不食」という本を読んだ。
昔、山田さんの「人は食べなくても生きられる」という本を読んだ。10年ぶりのこの本で、山田さんが、この本で、どういう気づきがあったか、興味があった。
本の中で、幸せの湧く井戸という文章がある。
「古い井戸がある。清冽な水が湧いている。
人々はその水でのどの渇きを癒していた。
だがあるときに思った。もっとたくさんの水が手軽に得られるようにしたいと。
そうして人はその井戸の中に石を投げ込んだ。石を入れた分だけ水位は増した。
次から次へと石を投げ込んで水位を上げた。
やがて投げ込んだ石によって水源が塞がれて、泉は途絶えた。人はその井戸を捨てた。
その癖は今でも変わらない。新しい井戸を見つけてはまた石を放り込むのだ。
何もしなければ泉は溢れ続ける。何かを詰め込むからもともとあった歓びは消えてしまうのだ。
無人島ではそのことがよくわかる。
何もないし、何の予定もないという暮らしがある。現代とは対極の暮らしがある。
そこで気がつくことは何もしなくてもいいのだということである。
何もしなくても人は満たされる、人は幸福であれるという実感だ。」
と書いてある。
何もなくても、幸せという事がわかれば、外側に幸せを求めなくてもいいと思う。
多くの人が、外側に幸せを求めている為、いつになっても、満たされる事がない。
{山田さんの母親は、父親と朝から晩まで働いて、藁葺きの旧家から、新しい家を建てるまでになった。
山田さんは、そんな両親を見て、彼らの生き方は、「頑張る、我慢する、心配する」と思った。
だれよりも頑張ることが美徳とされて、つらいこともぎゅうっと歯を噛み締めて我慢する姿が美しいと賞賛された。
それに付随してあったのが「心配する」だった。
そんな母親に生涯の後半に彼女に、「もう十分にやってきて生活も楽になったのだから、もう好きなことをやっていいのだよ。」と。
当惑して彼女は答えた。「やりたいことがわからない」
あまりにも我慢して、頑張って、心配する事に集中し過ぎたものだから、若い頃にあったであろう夢と憧れがぼろぼろに朽ち果てて、消えてしまったのだ。
なんという人生であったことか。
それが彼女の人生だと言ってしまえばそれまでだが、彼女の生き方は日本人の生き方そのものではなかったか?
そして、母の背中を見つめて育った事により、僕だけの教訓が生まれたのだ。
「頑張らない、我慢しない、心配しない」}
と書かれていた。
山田さんは、母親の姿を見て、その逆の生き方を、考えるようになった。
うちの父親も、山田さんの母親と同じ状況だと思うが、私の場合は、頑張る、忍耐、行動する人になってしまった。
それは、強い父親であり、厳しい治療業界であった為、そう成らざるを得なかったと思う。
山田さんの、何もしなくても人は満たされるというのを、体感する事が出来ると、
なくても生きていけるが、分かるので、心配がなくなる。(ある事が、普通だと、ないと欠乏感を持つ。)
努力して手にいれたもの。
楽しみながら手にいれたもの。
今までは、努力して手にいれたものの方が価値があると思っていた。
同じ仕事を、一人の人は、努力しながら、もう一人は、楽しみながらする。
プロセスは、違うかもしれないが、結果は、同じ。
努力とは、心の中に葛藤がありながら、頑張る事。
そうして、成し遂げると、心が成長した気がする。
楽しみながらとは、心の中に葛藤のない状態で、ウキウキしている感じ。
その状態の人は、心に観念(こだわり)がないので、その事に純粋に楽しめる。
苦しんだって、楽しんだって、どっちの入口から、入っても、没頭状態になると、そこには、幸せしかない。
という事は、努力したい人は、徹底的に努力すればいいし、楽しんでやりたい人は、徹底的に楽しめばいいと思う。
これが、腑に落ちると、価値観の違いで、悩まなくなる。
どんな環境でも、どんな状況でも、全ては、本人次第だ。
今の状況は、本人と周りの関係によって出来ている。
今の状況が好ましいので、あれば、そのまま本人の判断でいけばいいと思うし、
好ましくない状況であれば、周りをみて、本人の判断をチエックし、修正すればいいと思う。
(本人の好ましくない状況が誰かの為になり、本人がそれを、いいと思っている場合は、この限りでない。)
とにかく、全力でやってもいいし、全力でやらなくてもいいし、ただ、本人の納得出来る人生ならそれでいいと思う。
零式活人術という炭粉先生の本を読んだ。
この本を読んで思ったのは、山登りである。
山登りにも、いろんなルートがある。
お花を見ながら、景色を楽しみながら、楽しく登って頂上を目指すコース。
断崖絶壁を、悪戦苦闘しながら、必死で登って頂上を目指すコース。
どちらも、頂上から見る事が出来れば、いろんなコースがあるのが分かると思う。
私などは、才能というものが、無かったので、とにかく、努力と、根性だけで頑張るしかなかった。
社会で揉まれ、お腹が痛くなったり、お尻から、太もも、ふくらはぎ、足までつって、曲がったままになったり、
朝、起きたら、鼻血で,血の海になっていたりした。
そんな感じで、頑張って積み重ねていると、現実は、少しづつ、理想に近づいていった。
ただ、世の中には、もっと、もっと、命懸けの努力を、重ねている人がいたりした。
元々は、凄い理想家なので、いろんな事を夢みていたが、現実は、一歩、一歩頑張るしかなかった。
私の場合、元々は、嫌いな努力や、根性がいつのまにか、習慣になってしまった。
そうしていると、心の内面では、頑張っている人は、好きだが、頑張らない人は、嫌いという感情を持つようになった。
苦労してこそ、価値があり、物事を把握して、から出ないと、楽しめなかった。
最初から、楽しんでやるという考え方は、なかった。
今は、価値観で、判断しなくなったので、努力しなきゃ、苦労しなきゃダメという事は、なくなった。
人と人が出会い、その場がうまくいきやすいのは、同じ価値観を持った人同士だと思う。
努力が大事だと思う人が、努力が大事という人と同じ場にいる。
楽しい事が大事と思う人が、楽しい事が大事という人と同じ場にいる。
同じ価値観同士の方が分かりあえる。
努力が大事だと思う人と楽しい事が大事という同じ場にいる。
ここで、お互いの価値観で、話をしても、この場は、うまくいかない。
この時、お互いの価値観は、棚上げして、ただ、ただ相手の事だけ考えると、
本人の我のない状態なので、相手の心の内面が出てきていい状態になる。
この時は、今までのように、価値観がぶっからないので、相手の話が、すーっと聞ける。
これが、出来るようになると、今まで嫌いだったものや、世界が、あっ、そういう考えもあるんですね。
と思えるように、なって、表、裏と物事の一面しか見ていなかった事が、表裏は、ひとつというのが、分かってくる。
今は、私という意識をどんどん大きくして、より自由度を、あげていきたいと思う。
保江先生と矢作先生の対談本、「ありのままで生きる」という本を読んだ。
自由な考えの保江先生と、聖なる考えの矢作先生が、同じテーマについて、話している気がした。
本当は、みんな赤ちゃんのように無邪気に生きると伸び伸びして楽しいと思う。
ここは、地球の日本という国。
法律があり、常識があり、道徳があり、みんなの心の中に観念があり、ルールがある所である。
大人は、赤ちゃんが大きくなるにつれ、いろんな事を教えようとする。
それは、何も知らないから、教えてあげようという気持ちである。(悪気は、ない。)
大人になって、みんないろんな悩みを持つ人が多いと思うが、その中のひとつは、本人の本当に望む事と、
周りのルールに合わせなきゃいけないという心との葛藤があると思う。
今、私の思っている事の判断基準は、、果たして、本当に、私が心底望んでいる事なのかを、追求していくと、
どんどん、心が楽になる。
赤ちゃんの無邪気は、みんなから、愛される。
大人の無邪気は、ルールが正しいと思っている人から見れば、我があるようにみえる。
善という考えで、悪は、間違えと思っている人と、善というのが、好きな人がいると思う。
赤ちゃんの無邪気さを持つ人と、聖なるものを好む人が出会うと、そこに、何を思うのだろうか?
純粋無垢な心を持った人が、このルールの多い世の中で、一生懸命、誠実に生きている人に出会い、心を打たれたのかもしれない。
一生懸命誠実に生きている人が、純粋無垢な心の人に出会い、肩の力を抜いてもいいだよという事に気付いたのかもしれない。
もし、全ての事が分かっていたら、私の行動が周りにどう影響するか?私も周りも幸せにするには、どうしたらよいかが分かると思う。
もし、見えている範囲が狭いのであれば、ただ、目の前の事に、一生懸命力を注ぎ、それを、没頭するくらいまで行い、
一日の中で、没頭する時間を少しづつ、増やしていけば、いつのまにか、幸せしかない状態になっていると思う。
日曜日の、冠光寺流の稽古に、沖縄空手の銘苅先生が、参加されてくださった。
膝相撲という、(膝をつけた状態での相撲)、のを、先生とお手を合わせる事が出来た。
体格的には、私の方が、大きいのだが、ひっくり返されてしまった。(何で倒されたか,分からない。)
懇親会の席で、銘苅先生とお話が出来た。
先生が、体重を下に、落として、そのまま、拳を真っ直ぐ打つと、相手は、ふっとぶという話だった。
寸止めの本当の意味は、当てたら、死んでしまうので、寸止めとい事らしい。
先生が、話してくれたのは、だから、もう少し出来るように、なると、戦う前から、お互いの実力が分かり、参りましたとか、
争わなくても、話がつく状態になると教えて頂いた。
更に、進むと、赤ちゃんのように、敵がいない状態という話をして頂いた。
よく、無敵という言葉は、最強の意味で使われるが、本当の無敵は、敵がいない状態の事だと思う。
みんな愛とか、好きという気持ちを、持っているが、あの人だけは、ダメとか、嫌いとか、という気持ちもあると思う。
無敵は、みんなから、愛される人だと思う。
銘苅先生は、冠光寺流の師匠に、会いたかったと話してくださった。
最近、思うのは、世の中には、それぞれ、自分の道を追求している人達がいる。
そこに、触れてみると、ただ純粋にそれだけを、求めている心が見える。
ただ、ただ、心を込めて、一生懸命頑張ると、そのうち、没頭した状態になる。
そうすると、今まで、こうだと思っていた事自体が、考えに過ぎない事に気づく。
どんな事でも、少しでも、今に取り組めば、人生は、変わる!
最近、考えている事は、私が私を喜ばせる為には、どうするか?
今まで、努力、根性だけで、頑張ってきて、そのくせ、私に対しては、粗末に扱ってきたので、思いっきり、優しくしてあげたいと思う。