所在地 | 〒272-0133 千葉県 市川市 行徳駅前2-22-2高橋ビル1F |
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電話番号 | 047-300-3820 |
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院長 | 松岡 良一 |
月曜日に、行徳の吉野先生と、東北のローズさんのコラボワークショップがあった。
感想として、
①波動が大事。
②問題の捉え方。
①波動が大事。
流れとして、思考⇒行動でなく、波動⇒思考⇒行動のようである。
だから、思考だけ変えても、波動が変わらなければ、現実は変わらないようである。
そして、ローズさんが教えてくれたのは、その人が持っている気質というものがあるそうだ。(例えば、頑固、優柔不断とか。)
これが、分かればその人にあった生き方があると思う。
吉野先生は、波動に対する取り組み方の説明として、逆上がりで、出来た時の感覚をつかむ感じと話してくれた。
②問題の捉え方。
波動には、高い波動と、低い波動がある。
高い波動は、上がる感覚、拡張する感じ、低い波動は、下がる感覚、収縮する感じ。
問題としている時は、低い波動になっている。
であれば、高い波動にすれば、問題は解決する。
問題として捉えた時は、まず、困ったなと思って、向き合っている。
例えば、頑固な人がいるとする。
頑固な人と思うと、話を聞いてくれないし、手強いなと思うかもしれない。
でも、この人をこだわりの人と思うと、いきなりプロフェショナルって感じになる。
そうすると、この人がなぜ、そこにこだわるのかと思えてくるかもしれない。
問題は、問題があるのではなく、問題として見る心があるのである。
で、段々分かってくる事として、問題を通して、私の中にある問題として見る考え方に気づく事だと思う。
そうすると、どんどん楽になると思う。
問題を楽しく捉える、練習をしていくと、いつか、問題という見方自体がなくなると思う。
ローズさんは、嫌な人がいる時、私が出来ない事を代わりにやってくれていると思うといいと仰っていた。
(ローズさんと話をしました時、その人の使う言葉で、その人の持っている思いグセが分かると話されていたので、凄いなと思った。)
予兆という話もして頂き、今の現状を見ると、先が分かると話をされていた。
この話を聞いた時、空間という見方をされているなと思いました。
いろいろ思う事のひとつに、今までのデーターにない事を思い浮かべるのは、難しいですけれど、(空っぽにすれば、いけると思いますが。)
知らない事を知るというのは、それだけで、凄く、世界が広がります。
吉野先生、ローズさん、非常に、勉強になりました。
ありがとうございました。(*´∀`*)
日曜日に、柳生心眼流の骨絡の三回目があった。
そこで思った事。
①歩き方、今と昔。
②アドバイス。
①歩き方、今と昔。
今の歩き方は、踵から足を、地面につける。
その衝撃は、強く、これが、歪みの原因であると、先生は、仰っている。
身体の歪みを治して、痛みとかの症状を取っても、歩き方の指導までしないと、根本の解決にならないというのを、
一番伝えたかったみたいです。
昔の人は、つま先重心で歩いていました。この歩き方だと、今より、歩幅が広くなり、長い距離が歩けます。
私の中では、身体を過保護にすれば、する程身体は弱くなるのは、知っていました。
今回、学んだのは、踵で、歩くと、関節がロックする感じがします。これが、歪みの原因なのかなと思います。
②アドバイス。
平先生が、島津先生にある技の事について、あれは、武術の身体の使い方が出来ないとダメですね。と話をされていました。
そこで、思いまする所は、昔の人と、今の人では、身体が違いますし、今の人は、靴を履いているけど、昔の人は、靴を履いていなかったり、足袋だったりして、生活スタイルも違います。そして、個人の身体も違います。
となれば、その人の筋力、運動能力、生活スタイルにあった現時点のベストの歩くスタイルを提案する事が出来れば、一番いいのかなと思います。そして、それらの歩く力が上がったら、次は、こういう歩き方とか。(これが、難しいと思いますが。)
物事を考える時、つい、これは、いいと基準にしてしまうと、他を認められなくなります。
その時、大事なのは、いいと思われるものと、現状の把握、そこを考えた上での、取り組み。
いいものは、取り入れた分だけ、楽になると思います。後は、行動ですね。
おまけ。島津先生が、顎の調整をされていたので、やって頂きました。
前から、たまに、唇噛んだり、舌を噛んだりして、最近は、しっかり噛めなかったので、これは、是非、やっていただこうと思いました。
頭を固定され、ガゴッと、音がして、衝撃がきました。
しっかり噛めるようになりました。いい感じになりました。
ありがとうございました。(*´∀`*)
①タブー。
②やすえくにお先生。
③頑張って選挙に行って、投票しましょう!
①タブー。
昔、先輩だったか、友達だったか、忘れたけど、教えてくれた。
患者さんと、話をする時、政治の話と、宗教の話と、野球の話はダメだそうだと。
業界に入って、初めの頃は、この意味がよく分からなかったけれど、今なら、分かる事がある。
この話をすると、同じ考え方の人ならいいが、違う考え方の人は、気分を害するからダメみたいである。
確かに、患者さんの気分を悪くさせながらの治療は、難しいと思う。
だから、不用意な争いを生まない為の方法みたいである。
②やすえくにお先生。
冠光寺流(合気道)の道場に行くと、みんな素直な優しい気持ちになる。
ある時、あっ、これは、やすえ先生がこの空間を創っているだと思った。
これを、国会の場で、やってみたいそうだ。
例えば、凄い先生が、あなたは、左の方の道を通った方が、人生上手くいくと言われたとする。
でも、どうしても、右の道を行きたいとする。
さて、どうするか?
とりあえず、右の道に行ってみる。
そうして、みると、やっぱり、右の道は、ダメで、左の道になったりする。
でも、これをやると、納得して、左の道に進める。
次に、右の道に行きたい気持ちを押し殺して、左の道に行くとする。
とりあえず、上手くいく。
が、いつか、上手くいかない時、私自身で、決断していないので、人の性にしたくなる。
また、こればっかりやっていると、どんどん考える力が無くなってくる。
これでは、誰の人生か分からなくなってしまう。
まとめると、人から指図されるより、本人の人生は、本人自身の納得の決断の方が、本人が人生を創っている気がする。
そんな人に、やすえ先生の提供する愛の場は、本人自身の興味の持っている事に、気づかせる場となっている。
この場のいい所は、その先生の価値観で出来いる場でないので、その先生の意図する方向へ持っていくことができない所だ。
その人の奥の方で、大事に思っている気持ちに気づく、そんな場だ。だから、みんな気づく事は、違うと思う。
それが、個人を生きる意味。それぞれが違うが、結局は、繋がっている。闘い繋がりかもしれないし、仲良し繋がりかもしれない。いろいろあると、思う。
私自身は、やすえ先生の教えを、日々の生活で実践して、楽になりました。
どんな感じかいいますと、今までは、努力、根性で、ずうっと、生きてきましたので、頑張らない人は嫌いでした。
これが、価値観の考えです。努力、根性を大事にしてきたので、これを、正義と捉え、反対を悪として捉えています。
価値観は、その人の生き方で、出来てきますので、つい、私自身と思ってしまいます。
でも、私そのものでなく、考え方にすぎません。
今は、努力、根性という考えが好きという感じになっています。
こうなると、今は、どんな感じかと申しますと、ある物事について、Aさんは、良い、Bさんは、悪いという話を、
どっちの話もストレスなく、聞く事が出来ます。
無償の愛という場が出来ると、価値観というのが、気にならなくなります。
そこに、信頼関係が出来て、価値観が大事という考え方から、価値観より、信頼関係が大事だと変わるからです。
そんな場をやすえ先生は、提供出来ると思います。(*´∀`*)
③頑張って選挙に行って、投票しましょう!
選挙で思う事のひとつは、発言力のある人が、私はこうだと言うと、それに追従する人が出てくる。
ひとつは、何とかさんが言うなら間違いないなと思う人。
もうひとつは、何とかさんが言うなら、従うしかないと思う人。
心優しき発言力のある人が思う事は、私の意思を言うと、それを聞いた人が、本当は、誰さんに入れようと思っているけど、
何とかさんが、言うなら、それに、強制的に従わせた気がして、申し訳ないと思う。だから意見を言うのを、控えたりする。
言うのも、選択、言わないのも、選択、聞くのも、選択、聞かないのも、選択、全て、本人次第と考えれれば、悩まなくなる。
世の中には、選挙に行っても、ダメと思っている人もいる。
そんな人は、こう考えは、どうだろうか?
本当は、100パーセント納得出来る人に投票したいが、いない場合。
本人の考えでは、100パーセントダメな人と、50パーセントダメな人が居る場合。
50パーセントダメな人を選んだ方が今より、よくなるという考えはどうだろうか?
選挙に行かないという選択も、本人的には、いいと思うかもしれない。
だが、この人が親だった場合、子供は、親の姿を見て、そういうものかなと思ってしまうかもしれない。
全ては、あなたの人生なので、あなたの納得の答えを決断する事が、一番後悔ないと思う。
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日本の心を伝える空手家 銘苅拳一 という本を読んだ。
この本は、銘苅先生に炭粉先生がインタビューして、書かれたものだ。
感想として、
①感想をまとめるのが、大変だった。
②空手 国際親善
③殴ることについての考察。
①感想をまとめるのが、大変だった。
この本を読んで、最初に分かったのが、炭粉先生の空手と国際親善に対しての認識。
後は、銘苅先生の凄さと、個人的な気づきを書けばいいと思った。
何で、書けないのかと思ったら、
「私の武勇伝などよりも、国際親善の大切さをこそ描いて欲しい」との銘苅拳一の心。
という一文。
武勇伝中心に書かれていれば、中国に門弟八百万人の銘苅先生の凄さが分かりやすいかなと思ったが、
これが、無いので、銘苅先生の凄さアピールが出来ないと思い、さて、どうしたものかと、葛藤していた。
なら、銘苅先生の人間性の高さを伝えれば、分かる人には、分かるかなと思った。
②炭粉先生は、銘苅先生と話をしているうちに、炭粉先生の持つ空手のイメージ、突き、蹴りと、
銘苅先生の空手(手 ティー)が違う事が分かった。
銘苅先生曰く「 炭粉さん、空手・・・いえ、手(ティー)何も殴り合い、蹴り合いだけではありません。投げ技もあればスカシ技もあります。手がやがて(トウディー)、そして本土に渡って『空手』と呼ばれるようになった時、既に隆盛を極めようとしていた柔道に遠慮し、打撃技以外を晒すことを敢えて伏せたのです。」
「昔はね、道場も流派もなかった。段位もなかった。空手着もなかった。ただ、ティーチカヤー(手使い)とティーナラヤー(手習い)の区別だけがあった。ティーチカヤーがティーナラヤーを教えてあげるのです。それだけのことなんですよ。」
「試合には必ずルールがあります。だから厳密な意味では、武道たりえない。そして勝った方は『次は負けるかもしれない』と不安になり、負けた方は『次はリベンジしてやる』という気持ちになる。その繰り返しの中に魂の向上は望めないと私は思うのです。昔の沖縄のティーチカヤーはね、『勝負は時の運などではない。お互いに会った瞬間、もう勝負はついている。それを、やってみなければ分からないなどというのは、まだ、全然修行が足りないのだ。会った瞬間、見た瞬間に勝敗が分かるようになれば、何故戦う必要があるのか」と言っていました。つまり武道を修行し、極めるとは、即ちそういった境地を得るための精進なのです。」
炭粉先生が最後の方で、書かれています。
もし、・・・畑村が保江の説く<愛>という概念で氣空術を悟り、その結果銘苅の見た沖縄の名人の技に接近出来つつあるのであれば、沖縄の空手の原理も同じく<愛>になるはずなのだ。
ここに至り、私は愕然とする。まさに<親善>と<真の空手の姿>とが、完全に一致したからだ!稀代の空手家・銘苅拳一が言いたかったこととは、これだったのではないか!彼は、それを知っていたのだ!
かくて銘苅が私に言った「自分の武勇伝よりも<親善>を伝えたい」との言葉に抱いていた違和感が、完全に霧消したのだ。
この炭粉先生の話を読んで思いました。私達の多くは、いろんな知識や、経験を積み重ねて、物事を理解していきます。
本来は、ただ、無償の愛というものがあり、それは、私達に関わる全てのものに対して同じ気持ちを持てるといいのですが、本人も知らないうちに、差をつけていたりします。その人自身が、人生を通して、その事に、気づく事が本人をどんどん自由にするのかなと思います。
③殴ることについての考察。
私の中で殴るというイメージが悪かった。
そこで、殴るという事について、考えてみた。
赤ちゃんが、お父さん、お母さんに寄って、行って、手が当たった。
別に悪い気しない。むしろ、可愛いと思う。
カップルの彼氏が、コイツ、といって、コツンと、彼女を叩いた。
これも、多分、悪い気しないと思う。むしろ、嬉しいと思う。
挨拶で、拳と拳を合わせた、通称、グータッチ。
これも、悪い気しない、むしろ、仲がいい。
私の殴るのイメージは、小学校の時、通知表をもらってくると、父親から、拳骨をもらった。
この時の、気持ちは、痛い、怖いだったと思う。
父親世代は、軍隊式で、親や、先生が、叱る時に、普通に、殴るをしていたそうだ。
だから、父親にとっては、殴るのは、普通の事だと思う。
空手の人は、突きや、蹴りがある。
突きは、いわゆる殴る、でも、悪いとは、思わない。
それは、お互いが、それに、同意して行われているからだと思う。
柔道は、投げる。柔道する人にとっては、普通である。
そして、同意の上で、やっているから、怖くない。
もし、歩いていて、同意なしで、投げられたら、大怪我する。それは、恐ろしいと思う。
私が殴るという事に対して、イメージが悪かったのは、同意なしに、父親から殴られていたからだと思う。
そこで、恐怖を覚えてしまったからだと思う。(何で怒られたか、分からない。)
もし、昔テレビでやっていた、スクールウォーズの監督のように、お前は、俺の子なんだから、しっかりしなければダメじゃないかと、涙を流しながら、ぶっ飛ばされたら、父親の愛を感じ、その期待に答えていたかもしれない。
そうはいっても、人生は、その人のものなので、父親の性にするのでなく、息子である私が、学び取らなければならない。
全ての行為は、いい悪いは無く、その人がどう受け取るかで、変わる。
そして、今回、気づいた事は、物事を、以外と、ごっちゃにしているな、と思った。
昔、銘苅先生が、冠光寺流の道場に来られた事があった。
その時、銘苅先生と膝相撲をやった。
2回やって、2回、私が勝った。(内心、我の無い人は、強いなと思った。そう思った時は、我があるのだけれど。(笑) )
その後、2回、縦にひっくり返された。(何で、やられたか、分からない。後に分かったけれど。)
その後の懇親会の席で、師匠が、銘苅先生に紹介してくれた。
そこで、銘苅先生に教えて頂いた。
先生が本気で、打つと、相手は、死んだり、吹っ飛んだりするとの事。
だから、当てない。これが、本当の寸止めの意味。
次に、もう少し強くなると、お互いの実力が分かり、戦わずして、参りましたとなるとの事。
そして、更に、上がると、赤ちゃんのように、誰からも、闘いを挑まれなくなる。
これが、敵がいないという本当の意味の無敵との事。
この話を聞きまして、流石、銘苅先生と思いました。
世の中には、銘苅先生のように、素晴らしい人がいます。
その銘苅先生が会いに行ったのは、氣空術の畑村先生。
その畑村先生が会いにいったのは、冠光寺流の保江先生。
その保江先生に決闘を挑んだのは、炭粉先生。
世の中には、素晴らしい先生方がいらっしゃいます。
その先生と、もし、出会える事が出来れば、今まで、持っていた価値観など、吹っ飛ぶかもしれません。
そして、いろんな可能性がある事に気づくかもしれません。
その為には、先ず、目の前の事を一生懸命やる事が大事だと思います。
そして、追究する事で、アンテナの感度を上げてみてください。
そうして、やっていくと、きっと、見つかると思います。
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