所在地 | 〒272-0133 千葉県 市川市 行徳駅前2-22-2高橋ビル1F |
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電話番号 | 047-300-3820 |
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院長 | 松岡 良一 |
氣空の拳を読んで、朝起きて、思った事。
小磯さんも、高荻さんも、闘いの世界に生きてこられて、いろいろ研究をされてこられたと思う。
小磯さんが畑村会長から、「当たってもええねん『受けよう』という気持ちを捨てて『迎え入れる』でやる。そうするとと攻撃した相手の反応も狂うし、技も決まる」というお言葉を頂いたと書かれている。
『受けよう』という気持ちを捨てて書かれている。闘いの世界であれば、攻撃、防御があると思う。その防御に、受ける(ブロックする。)、避ける(かわす。)のが、当たり前だと思う。
『受けよう』を捨てるとは、相手と私の力がぶっかるのをしないという事で、だから、『迎いいれる』となるのかなと思った。
日常生活で、相手と何か、意見がぶっかると、カチンとくる人がいると思う。(凄い頭にきた!”っていう人もいるし、少しイラっとした人もいると思う。)
防御を、避ける(かわす)を、日常生活で、使われると、こっちは、真剣に話しているのに、話をかわして、聞き流しやがって!(怒り!)となる。
どうしても、みんな生き方が違うのだけど、その生きてきた中で、掴んだもので、物事を判断するので、意見(価値観)が違うようになる。
畑村会長は、お会いした事は、無いのですが、小磯さんの文章を読んでいると、小磯さんのいろいろ追究されて出てきた拘りの質問に、ひとつ、ひとつ、丁寧に答えて下さっている感じがします。そうすると、小磯さんの方も、ひとつ、ひとつ、納得する事ができて、腑に落とされていかれるのかなと思います。
高荻さんが、合気を体験する為に、いろんなセミナーや、道場を巡られました。
高荻さんには、合気がかかりませんでした。合気がかからないと、態度を豹変する先生方がいました。
高荻さんは、憤慨しました。本物はいないのかなと思われたのかなと思います。
そんな時、男の中の男の炭粉先生が現れます。(注ー私は、炭粉先生ファンなので、偏った表現になっております。ご了承ください。)
高荻さんの、突きや蹴りは、凄まじいです。(瓦十枚を粉砕する拳、脛骨と腓骨を粉砕する蹴り)
炭粉先生は、生身ひとつで、痛み稽古という、相手から放たれる全力の攻撃に対し、一切の抵抗をせず、全て己の全身で受け止めるということをされた。
この時、高荻さんの様々な思い、持てる力の全てが出せた。
畑村会長、炭粉先生のお二人とも、厳しい道のりを歩いてこられた。
だから、小磯さん、高荻さん、お二人の気持ちがよく、分かる。
人の話を聞くとき、同じ価値観の人の話は、聞きやすい。
価値観が違うと、なかなか聞けない人が多い。
価値観が違っても、話が聞けるのは、尊敬出来る人か、好きな人の場合だと思う。
尊敬できる人に言われると、今までなら、あっ、それは、違うでしょう!と思っていたものが、尊敬できる人に言われると、あっ、そういうのもあるかなと思える。好きな人の場合も、あっ、そうかもと思える。
畑村会長、炭粉先生のお二人とも、積み重ねてこられた方なので、小磯さん、高荻さんのお二人とも尊敬できるべき、師匠だと思う。(積み重ねてこられたという点では、小磯さん、高荻さんも同じ価値観。)
その尊敬できるお二人が、目の前で、本物を、やってみせて頂いている。これは、納得するしかないだろうと思う。
畑村会長、炭粉先生のお二人のアプローチの仕方は、それぞれ、違うかもしれないが、お二人の言う通りにしていくことが、小磯さん、高荻さんの心をどんどん解放していくんじゃないかなと思います。
小磯さん、高荻さん、素晴らしい、畑村会長、炭粉先生に出会えてよかったですね。
お会いしました時、いろいろお話聞かせてください。
よろしくお願いいたします!
本の中に、アイキモードという言葉が出てくる。小磯さんは、会長にかけられたり、会長のアイキモードと、お手合せされている。その中でも、一番のアイキモードが、高荻さんとの自主稽古の時は、まさに、武神が舞い降りたような状態と書かれている。
小磯さんが、会長から、「当たってもええねん。『受けよう』という気持ちを捨てて、『迎え入れる』でやる。そうすると、攻撃した相手の反応も狂うし、技も決まる。」と言葉や、
炭粉先生からは、「合気とはある意味、全く相手と歩調を合わせないことで相手をギョッとさせる行為のことです。人同士が格闘する時、自由に攻防しているつもりでも、実はお互いに『格闘する』という約束をしっかり守っているのです。それを舞いなどの別の行為にすり替えることで、相手がよく見えてきたり、スローに見えてきたりする現象が生じます。何せ、『格闘する』約束を反故にするのですから。約束事とはつまるところ、脳が『~しなければならない』という思考のフィルターを通すことですから、その分遅くなるのです。」要するに、受けようとした時点で筋力の反応が起きる。そうではなく、迎い入れることで別の動きが身体の中で始まるのだ。そのような体験がいきなりのアイキモードにつながったのであろう。以降、何度かこの現象を体験した。攻撃してくる相手にこちらは闘う心一切無し。にもかかわらず、相手の動きが事前に見えて速く反応できる。と小磯さんは、書かれている。
ベンジャミン・リベットのマインド・タイムという本の中で、認識に、0・5秒かかるというのがあります。つまり、みんなが今と思った事は、0・5秒後の過去を、今と認識している事になります。時間の概念は、その人の意識によって、様々だと思いますが、一般的には、過去があり、現在があり、未来があると考えいる人が多いと思います。これを、未来は、少し経つと、現在になって、もう少し経つと、過去になると考えてみます。川に例えると、川の上流が、未来、中流が、現在、下流が過去です。みんなが思っている今は、本当は、過去なので、結果は、決まっています。その決まった過去を、今と認識しています。つい、先日、懇意にさせて頂いている行徳の先生と、話していて、みんなは、今と思っている、この過去にアプローチしているので、上手くいかないですよね。という話が話題にのぼりました。川の下流の過去より、上の中流に、石を置くことが出来れば、みんなが現在と思っている今(本当は過去)を変える事が出来るのかなと思います。(別に事象に対して、囚われがなければ、起こる事が決まっていても、大丈夫ですが。)
高荻さんは、第三の合気「合気モード」として、こう書かれている。
合気修行者が「合気モード」と呼ぶ「無念無想の境地」がそれである。筆舌尽くしがたい世界なのだが、私は、氣空術を学ぶことによって、幸運にもその初門に至ることができた。いったん合気モードに至れば正に自在。余計なことは何も思考する必要はなく、ただ触れるだけで相手は崩れ倒れていくのだ。技術を捨て、思考を捨て、自分自身すら意識に登らせることなく、全てあるがまま。水が流れるように動くだけで目前の敵はことごとく敵意を失っていく。たとえるとするなら、正に「天上天下唯我独尊」の境地である。
高荻さんは、氣空術を学び、氣空術の素晴らしさを知り、吉彦さんからは、冠光寺の愛魂上げをしてもらい、上がる体験をされ、下村さんとの自主稽古で、愛魂を体験されました。そこで、愛に対する感度が上がったのかなと思いました。そうして、炭粉先生との痛み稽古で、炭粉先生の想いを感じ捉え、会長や炭粉先生が掴んでいる感覚を体験されたのかなと思います。更に、下山さん、谷内さんとの自主稽古の自由攻防で、正しく、炭粉先生の痛み稽古の炭粉先生の立場になり、合気モードが発動されたのかなと思います。
愛って、男女の愛とか、親子の愛とか、動物の愛とか、無償の愛とか、いろんな愛があると思います。
無償の愛は、禅の自分も他人もなく同じように考えられる境地と同じだと思います。
私的に分かるのは、我欲がないと、相手とぶつかるべきものがないので、その人と、対峙したとき、相手は、愛を感じるようです。
高荻さんが、こう書かれている。
実際の攻防戦に於いては、我々は常に相手の思考や動作に心が捕らわれてしまう。視野は狭くなり、呼吸は浅くなる。恐怖故に相手から目を離すことも、心を解放することもできなくなる。所謂、固まった状態になってしまうのだ。正に相手に(環境に)呪縛されたかのような状態に陥りやすくなる。剣術の世界ではこのような膠着状態を「合気」と呼び、避けるべき状態であると教示してきた。対して、この状態から離脱することができれば、初めて真の自由を得、心身ともに自在に動けるようになる。人間の魂は歓喜し、まるで舞を踊るかの如く自然に開放されていくのだ。受けはどれほど意識して攻め込もうとも、こちら側に影響を及ぼすことはできない。その状態は己の外で発生する事象全てに捕らわれることを嫌い、多くの信号を無(零)に帰してしまうからだ。逆に仕手側は、受けの身体に触れるだけで「かけるべき合気」がは発動する。受けにしてみれば、触れられた箇所からは、護身に供する十分な情報が伝わったこない。また、どの箇所にどのように質量が伝達されているかをいつものように察知することができなくなる。仕手の不思議な状態に気が付いたときには、時既に遅く、バランスを立て直そうとしても、もう間に合わないのだ。既に体の軸はゆがめられ、もはや立っていることができなくなるのである。これこそ「かけるべき合気」ではないか。この「観の目」の境地を得て初めて、「かけるべき合気」と「避けるべき合気」の矛盾がことごとく消失するのである。
高荻さんと、小磯さんは、今まで、数々の実戦を積んでこられ、合気モードを知っている会長と、炭粉先生に出会い、お二人もその境地に至る事ができたのかなと思います。
合気モード、いつか、是非体感したいと思います。よろしくお願いします!(*´∀`*)
今回、氣空の拳を読みまして、この本に出ているみなさんの熱い想いが、とってもいいなと思いました。
やっぱり、真剣に追い求めるその姿勢に、ちゃんと、結果はついてくるんですね。
ありがとうございました。
松岡良一
小磯さん、高荻さんの共著、「氣空の拳」という本を読んだ。
氣空術を学んでいるお弟子さんが書いた本だ。
小磯さんは、元キックボクサーの方で、高萩さんは、空手をベースに、いろんな武術をしていた方である。
いいなと思ったのが、小磯さんの、心情が書いてある所である。
真剣にずっと、やり続けている方なので、その中で掴んできてきたものがある。
だから、で、実際どうなの?となる。
そういう、心の熱い思いを、正直に書いてある。
それは、それだけ真剣に関わってきた事だから、試さずにはいられないと思う。
それを、実際にやってみて、その事の考察を書いてくれている。
「氣空術は、この感覚で得る動きが数多い。考えるのではなく、感じる。それによって、技の感度や感覚を心と身体で練り上げていくのだ。」
「稽古では、以前、自分がやっていたような、かかるものか、は間違い。初めのうちは、お互いに感知して確かめ合いながらの稽古が、力は入れずに出す、を知ることにつながっていくと思う。むろん、相手に合わせてかかってあげる、は間違い。それでは、技の習得にならない。稽古の雰囲気を楽しむのはいい。しかし、楽しむあまり、わざわざ、相手に同調して、かかってあげる状態、にするのは単なるラポールだ。これでは相手ばかりか、自分の稽古にもならない。技(動き)がある程度のレベルできるようになれば、相手が力任せで対応しようが簡単に投げ、崩すができる。できるようになったら、より、感覚の精度を高めていく。支部稽古でできたからといって、それは、会得、には及ばない。どんな場面でも、使える技、とするからにはやはり、修練を積む以外にない。何度も繰り返すようだが、武術の技、インスタントでできるようなものは何一つとしてない。地道な繰り返しの中から体得していくしかないと思っている。」
と、書かれている。
私も、最初の頃、黒帯の人を相手に力試ししたりしていた。これをやると、我が出て、愛が出なくなってしまった。力を出すと、感覚が感じられない。そうして、黒帯の人のプライドを傷つけてしまった。それからは、相手を見て、やるようにした。黒帯の人の中に本気でやらなきゃダメという人がいた。でも、そうすると、強い方が勝ちになるんじゃないかと思った。ある黒帯の人とやると、岩のように全く動かかなかった。そして、寡黙な人だったので、私はやる度にダメだなと無力感を感じた。幸い、いろんな先輩方がいて、導いてくれたお陰で、うまくいったり、いかなかったりを経験さして、頂いた。
ある有名な武術家の方に、教えて頂いている時、力で対抗してみようと思って、やってみた。すると、やってもいいいけど、何でもありになるよと仰られた。(えーっ、そんなつもりじゃないのになぁ、と思った。(´・ω・`))そこで、思ったのは、何かを学ぶ時は、それに、限定しないといけないだなと思った。
一方で、かかってあげるのは、間違いという考え方がある。それは、かかってあげるという事をすると、それを、つい、私の実力と勘違いしてしまうから、ダメだという考え方である。
じゃあ、私より、実力のある人が本気出したら、何も出来ないし、かと言って、かかってあげるのは、相手の為にならないし、どうすれば、いいんだ?となるかもしれない。
この両方を満足させる為にどうするか?
それが、小磯さんが書かれているように、初めのうちは、お互いが感知して確かめ合いながらの稽古がいいと思う。
私であれば、今、このぐらい来ているよとか、身体のここまで、来ているよと、伝える感じにしている。
また、相手の方に、どんな感じですか?と聞くようにしている。
人の身体って、みんな違って、ある一定の強さを、1と感じる人、5と感じる人、10と感じる人がいる。身体の大きさや、筋肉の強さや、反射神経や、スタミナが違う。心の方でも、協力的な人や、非協力的な人や、敵対心を持っている人もいる。だから、上手くいく相手や、上手くいかない相手が出てくる。本当は、全てを分かった人がいて、私は、レベル1000で、完璧です。私から、みると、あなたは、中心からの力の伝え方、不十分で、立位の時と、座位の時の身体の使い方が、違います。敵対心の強い相手の時は、あなたの心が萎縮してしまって、あなたの普段使える力が、45パーセントまで落ちます。あなたのレベルは、254ですとか。そんな人がいたら、楽でいいのですが、そうもいきません。みんなの「ものさし」は違うのだから、うまくコミュニケーションをとるのが、大事になってきます。そうして、いろんな人とコミュニケーションをとって、総合的に判断して、技術を高めていくのが、大事だと思います。
小磯さんの熱い思いが、そのまま、研究の原動力になってる感じがしまして、その時、思った、本音を書いてくれているのが、いいなぁと思いました。勉強になります。ありがとうございました。
3月1日で、開業して、10周年目に入る。
整骨業界は、私が入った時と比べて、非常にのんびり出来ない感じになっている。
昔は、おじいちゃんやおばあちゃんに、いい天気ですね、とか、言ってマッサージして、
最初の頃は、腕の力だけで、ほぐしていたので、土曜日ぐらいになると、腕が上がらなくなったりした。
そんな事をするうちに、ほぐすだけでは、症状が改善しない人が出てくるようになったので、講習会とか、行くようになった。
世の中には、いろんな治療法があり、いろんな先生がいた。中には、胡散臭いものや、怪しいものもあったが、
その中には、本物もあった。(私の場合、基準は、ただ、効果があるか、ないかだけなので、外側は、関係ない。)
そんな感じで、いろんな先生や、患者さんと会い、いろいろ考えているうちに、患者さんと、向かい合う姿勢が、どんどん深くなった。
今年、一年の成果としたは、今まで、短気で、怒っていた人が、怒る事が殆どなくなったという話を聞くようになった。
地道な、身の周りからの草の根活動をしている気がする。
個人的に好きなものは、調和とか、平穏とか、仲良くとか、愛とかなので、そのような世界を、構築している。
いろんな人生があっていいと思う。
生とか死というのを、意識して暮らすと、命が生き生きして、凄く充実する。
ぼやっと、生きると、いろいろ億劫になる。
やりきった人生とやり残した人生があるとしたら、みんなは、どちらを、選ぶのだろう?
たぶん、やりきった人生を選ぶ人が多いと思う。
であれば、なぜ、今、全力でやらず、言い訳をしているのだろうか?
人に対する言い訳はまだいい、人生最後の日に、後悔に気づくのは、勿体無いと思う。
小学生の頃、全力で、やるのが、怖かった。
それは、もし、全力で、やって、それでも、ダメだったら、私という人間は価値が無いというのが、怖かった。
今は、全力で、やる、それで、ダメだったら、しょうがないと思っている。
全力でやる。そうすれば、後悔がない。
私なりの全力は、私が納得する。
他人の評価は、関係ない。
私の人生は、私が決める!
喜怒哀楽という言葉がある。
怒り、悲しみは、嫌いで、喜び、楽しみは、好きという人は、多いだろう。
小学2年生の時、そろばんを辞めると言って、父親に、そろばんで、頭をカチ割られた。
そろばんは、飛び散り、頭から、血が出た。
その時、良一少年は、思った。今は、小さくて、ダメだけど、いつか、大きくなったら、やっつけてやる。
これが、生まれてからの、最初の怒りだったと思う。
今となっては、九州男児の父親にとって、長男は、期待の星であり、期待をかけていた息子が、弱音を吐くのは、
情けなくて、歯がゆかったので、怒りが沸いたという気持ちが分かるのではあるが。
昔、いろんな患者さんや、友達に、親にどういう怒られ方をしたかを、聞いた事があった。
それは、子供は、知らず、知らずに親の影響を受けていると思ったからであった。
父親の場合は、祖父に、火箸で、叩かれたらしい。だから、父親からは、そろばんだったり、通知表を貰うとき、拳骨を貰った。
そういう事もあってか、私は、短気な人が嫌いであった。そのくらいで、怒らなくていいのに、と思っていた。
仲良くすればいいのになぁ、と思っていた。かと言って、短気な人に、注意は、怖くて、出来なかった。(父親の場合は、父親なりの理由があった時しか怒らなかったが。)
小学生の時に、暴れ者の転校生が、殴りかかってきた事があった。気は弱かったが、力だけはあったので、地面に押さえつけた。今まで、人に意地悪した事なんて、一度も無いのに、何でだろうと思った。これは、20年後の小学校の同窓会で、番長と話をした時に、番長の差金というのが分かった。今思うと、力で、勝てないので、うまく、転校生が勝てば、自分の思い通りに出来るという小学生の計算だったみたいだ。
地獄の3年と思っている、病院に勤務の時代、ストレスで、お腹が痛くなったり、足が曲がったりした。
短気な先生がいて、その先生の言う事を、全て、はい、はい、と聞いていた。
ある時、先生の言われる通り、患者さんに、説明をして、処置をしていた。
その時、先生がそれは、違うと言った。
仏の顔を今まで、1万2000回くらいはしていたと思うが、流石に、これには、頭にきた。
患者さんが、帰ってから、先生に手を出すと、壊せる自信は、あったので、危ないと思い、病院の壁に、拳をつけ、
怒りをぶっけた。大きい、バーンという音がして、壁に穴が空いた。怒髪天の力は、凄いと思った。
そして、先生に注意をした。今思えば、この先生が力を誇示するには、弱い者に対してでしか示す事が出来なかったというのが分かるのだが。
整骨院のグループに勤めている時、分院長候補の柔道をやっている先生が、主任さんに、殴りかかっていった。その先生を抑えて、そのまま整骨院の外まで、出した。その先生が、アイツには、分からせなきゃダメだから、怒ったふりをしたんですよと言った。私は、怒ったふりが出来るなんて、凄いなと思ったが、後で、考えてみると、どう見ても、目は、いっちゃてるので、キレて、殴りかかって、いって、冷静になって、そういう理由をつけたのが、本当の所だろうと思う。
私は、短気な人が嫌いで、内心、短期な人に怒っていた時期があった。
短気な人は、怒りが外に出ているので、怒っているのは、分かり易い。
分かりにくいのは、一見、大人しい感じなのに、心の中に怒りを溜めている人だと思う。
怒りは、溜めると、身体の調子を悪くして、しまう。
怒りを、負けず嫌いとして、原動力にすると、頑張る力が沸いてくる。
私も、怒りを、努力、根性の原動力として、活用していた時期もあった。(糞真面目プラス怒りだったと思う。)
喜怒哀楽の、喜び、楽しみという感情は、多くの人に好まれる。
例えば、今が戦いの世の中であったとしよう。
この時、好まれるのは、怒りや、悲しみという感情では、ないだろうか?
身内がやられたから、相手をやる。
相手の方も、身内がやられたから、こちらをやる。これが当たり前。
今の日本から見ると、負の連鎖に見えるかもしれない。
不毛な戦いに見えるかもしれない。
喜怒哀楽、本当は、ただの感情に過ぎず、そこに、優劣はない。
そうは言っても、喜びや、楽しみで生きたいですよね。
であれば、なぜ、怒ちゃうのか?考えたり、なぜ、悲しいのか?考えたりするか、
相手のその喜怒哀楽の奥にある、愛を感じ取る事が出来れば、敵はいなくなります。(実証済み、これが、難しい。)
一生懸命、頑張っていきましょう!
昔、ある時、例えば、アフリカの人に、日本の情報があれば、凄く生活が便利になるのにという話をしていて、その為には、アフリカの人がその情報を手にいれるにはどうしたらいいか?という質問を、山登りのリーダーにした事があった。この質問の意味は、今、いる所と、別の場所では、文明が進んでいて、今いる所の人が、進んでいる所の情報が手にいれられれば、便利なのになぁ、からの質問であった。それに、対し、リーダーは、その人、その人によって、その場所にいる意味があるので、という感じで答えてくれた。この当時の私の考えは、便利な方法を使うであった。
今は、どう考えるかというと、例えば、アフリカのある部族が狩りをするとする。そこに、ライフルというものを持ち込む。すると、狩りは、楽かもしれない。便利である。一方、ライフルがない部族の人は、木の槍で、狩りをしていたとする。すると、ライフルと違って、狩りは、楽ではないので、槍の尖らせ方を考えたり、木の種類を考えたり、獲物の習性を考えたり、獲物の追い込み方を考えたり、いろいろ工夫すると思う。便利は、楽でいいが、考える力を奪う。元々、便利なものを生み出すのは、不便があって、それを、解決した結果が便利になるのではあるが。ライフルという武器に頼っている人は、槍を使っている人より、身体を使っていないので、身体が弱くなる。便利なものに頼ると、本人のいろんな力が弱くなる。
便利じゃない状況だと、工夫しなければならないので、苦労を知っている。苦労を知っていると、感謝の気持ちが生まれる。
便利が当たり前になっていると、感謝の心が持ちづらい。
私が、ある部族の生き方をしていたら、いろいろ大変かもしれないが、毎日、生きるという事だけを考えて、充実した生活を送っているかもしれない。
一見、便利という事は、よさそうだが、もしかすると、別の喜び、を奪っているかもしれない。
また、違う視点から見ると、便利になった分、本人の興味のある事に時間を使えるという場合もあると思う。
便利というのは、効率を求めている人には、喜ばれる。
ただ、いろんな人を見ていると、仕事が出来るというのは、たくさんの事が時間内に出来るのが、仕事が出来る人と思っている人が多いが、そんないろんな事を処理出来る能力が高いと言われる人が、以外と、本人の求めるものは、そこにはなくて、本人の感じる充実感だったりしている。
便利な世の中になれば、なるほど、簡単に出来ない事は、面倒くさく感じるかもしれない。
便利な世の中になれば、なるほど、苦労はしなくていいかもしれない、でも、苦労というものは、充実感を生んだりする。
苦労したから、大切にする。苦労したから感謝の気持ちが分かる。
物事は、捉え方次第で、どうとでもとれる。
という事は、同じ事を見ているつもりでも、人によって、全く違う見方をしている。
考えるのが、苦手な人は、いろんな意見を聞いて、その中から、自分に合うのを、選択するのが、簡単かもしれない。
行動するのが、苦手な人は、いろんな人の行動を見ていて、その中で、やれそうなものを、選択するのが、簡単かもしれない。
どう生きようが、その人の人生、であるならば、好きに生きたらいいと思う!
マイ・インターンという映画のDVDを観た。
内容は、インターネットで洋服を扱う、若き女性社長と、会社を定年したシニアの人がこの会社にシニアインターンとして入っての物語。
この映画を観て思った事は、世の中が、どんどん便利になってる分、傷つけない、傷つけられないという表面的な関係が生まれたり、逆にバーチャルがリアルになったりしているなと思った。そして、求めているのは、人と人の繋がり。どこまで、その人と関わるか?どれだけ真剣に関わるか?それには、パワーがいる。直接的に関わる方が、失敗した時、ダメージが大きい。でも、洗練されたやり方より、より、その人が出るので、本人的には、納得し易いと思う。ひとつ、ひとつ、やり方に拘って、私らしさを見つけるのが、本人にとって、納得の人生になるのではないかと思う。その時、その時の本人の持っている意識が納得を目指すのが、人生を有意義に過ごす秘訣だと思う。私の求めるものに、妥協しない。なぜ、こういう事を私自身が書いているか、客感的に眺めてみた。そうすると、見えてくるのは、本人が制限を創って、本人が制限によって、縛られて、苦しんでる人が多いなと思っている私がいる。なぜ、苦しんでいるのか?それは、本人が創っている制限に気づかないからだと思う。では、どうすればいいのか?ひとつは、人の話を聞く。ひとつは、本人自身の判断をひとつ、ひとつ検証して、それは、本人が本当に納得している判断か確かめる。知らずに、親の判断、知らずに、日本の常識、知らずに時代が入ってたりする。出来るだけ、多くの情報を集め、相反する概念も置きながら、その中で、本人納得の答えを見つける。拘りがある意識の時は、とにかく、何でも、思いっきりやれば、本人納得の人生となると思う。拘りがない意識であれば、物事をただ、楽しめばいいと思う。その本人にあわせて、お好きな方、どちらでも大丈夫です。(*´∀`*)