所在地 | 〒272-0133 千葉県 市川市 行徳駅前2-22-2高橋ビル1F |
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電話番号 | 047-300-3820 |
FAX | 047-300-3821 |
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院長 | 松岡 良一 |
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日曜日に、東京の町田で、空手の宇城先生の体験型講習会があった。
二年前に、先生の講演会を聞きに行ったので、久しぶりだった。
内容は、例えば、二人の人が、立った状態で、向き合って、肩を組む。
それを、もう一人の人が横から押す。
一回目は、二人がイガミあっている状態。
横から押すと、グラグラする。
二回目は、二人が仲良くの状態。
横から押しても、安定している。
次に、肩を組んだ二人の人の下に正座した人が座る。
それを、もう一人が、正座した人を後ろから押す。
一回目は、同じように二人がイガミあっている状態。
すると、簡単に倒れる。
二回目は、同じように二人が仲良い状態。
今度は、安定しているので、倒れない。
ここで、先生は、両親がそんな状態だと、それは、子供に影響する。
と話をされた。
逆もあると思う。子供がしっかりしていると、親もその姿を見て、しっかりしなければいけないと思う事もあると思う。
先生は、頭の良い人程、首を捻ると話していた。
本当は、ただ、目の前の事実を受け入れるだけでいいと思うのだが、
頭の良い人(頭だけで考える人)は、どうしても、本人の知識、経験という所だけに囚われてしまっているので、
なかなか理解しづらいようだ。(素直が一番。)
他には、三人の人と更に後ろからもう一人が押さえた状態の四人対先生一人の腕相撲とか、子供や、妊婦さんと、大人の男性
の腕相撲とか、(いいなと思ったのが、子供が、大人四人に腕相撲に勝った事を、この事は、一生残ると先生が話されて
いた事。小さい頃は、意味分からなくても、本人の中の成熟度が増すと、ああ、そういう意味かとか、
凄い事を体験した、世の中には、凄い人もいるな。謙虚にならないといけないなとか。この経験が本人にとって、
宝物になる。そんな先を考えての行動は、素晴らしいなと思いました。)
最後は、先生一人対全員(百十人)とか(先生が台風の目のような感じで、みんなは、そこを、中心に回りだすという感じ)
があった。
そんな感じで、いろんな事をやっていくうちに、そこにいるみんなは、子供のような純粋性を取り戻し、
先生の話を素直に聞いている感じになりました。
二年前に、講演会を聞きに行った時、スタッフの人の緊張感が、凄くて、それが、伝わりました。
これは、宇城先生が、怖くて、みんな油断できないのかなと思いました。(礼儀を大切にと話されているので。)
今回、会場に行ってみると、スタッフのみなさんが、気持ち悪くなったら、直ぐ、声かけてくださいとか、
いろいろ声をかけてくれました。いろんな事をする時も、気遣って、優しく声をかけてくれました。
先生は、自立して、調和する事が大事と話されていました。
正しく、先生の考え方に共感し、それを受け継ぎ実践しているのが、今のスタッフの方だと思いました。
整骨院のグループにいる時、院長とスタッフのトラブルを解決する役目だったのですが、
そこで、分かったのが、院長は、一番初めの院長の影響を受けている事が多いでした。
例えば、最初の院長が、指導という事で殴るという考えの場合。
Aという院長は、それを、学んでいるので、殴るのは、当たり前という考えを持つ。
それを、スタッフに、そういうものだと思ってやってしまう。
Bという院長は、それを、学んではいるけど、やっぱり、殴るのは、良くないと思い、
別の方法で、スタッフに指導する。
Cという院長は、それを学んだけど、やっぱり、殴るのは、良くないと分っているが、
自分がされたので、その恨みを、スタッフに指導としてしてしまう。(こういう悪い奴もいます。)
Cという院長は、問題外ですが、以外とA院長のように、最初の院長の教えを、
私の頭で考えることなしに、盲目的に信じている場合が多々ありました。
今回、体験講習会で、伝えたかった事は、心と身体が一致していると、身体は、強いという事だと思います。
本当は、人間関係において、親子関係においては、親がしっかり真剣に向き合う事、親がしっかりしてない時は、
子供が、私自身で気づく事。人と人の関係に、おいても、その人の今持てる力で、真剣にお互い向き合う事を
すれば、良いのですが、なかなか労力入りますし、時間もかかりますし、大変だと思います。
そこで、手を抜くと、結局は、本人にトラブルという形で帰ってきます。
宇城先生が素晴らしいなと思いますのは、言葉と行動が一致している事だと思います。
なかなか人というのは、私に甘くというのが、あったり、つい、とか、状況によっては、とか、
いつも、言っている事と同じに出来ない事がある人は、多いと思います。
先生の場合は、言葉と行動が一致しているので、強いし、ブレないと思います。
例えば、喧嘩が強く、自己中心的な生き方をしている人が、先生と出会うと、
とにかくやっつけてみようと、いろいろしてみますが、何をしても、勝てません。
それで、俺より強いので、話を聞いてみるか、と、最初は、力関係の中で、従ってみるか
という感じかもしれません。先生は、礼儀が大事と話されておりますので、挨拶とか、
一つ、一つ、注意を受けるかもしれません。そこで、カチンときても、先生には、勝てません。
従うしかありません。そうして、礼儀を学び、先生の言われる事が、少しづつ出来るようになると、
何か,今までと違う人間関係が出来てくると、思います。
今までは、絶対そうだと思って許せない事が、そうでもないと心境の変化が出てくるような気がします。
そうして、先生と関わっていると、面倒くさいなとか、厳しいなと思っている事は、俺の事を思って
やってくれているんだなというのが、分かるようになります。
先生としては、一人の人間を一人前に育てるという気持ちで、やっていると思います。
例えば、気の弱い人が、先生と出会うと、先生のように、強くて、頭がよくて、優しい、凄い人になりたいと思うかもしれません。
そうして、尊敬出来る、先生の言う事を、一つ、一つ、実践して出来るようになると、本人が自信を持ち、
今までは、社会との関わり方は、消極的でしたが、積極的になり、違った世界が見えるようになる気がします。
先生としては、同じように一人の人間を一人前に育てるという気持ちでやっていると思います。
先生を見ていて思いますのは、人によって、違うというのが、分かったうえでの接し方をしているので
素晴らしいと思いました。
私が二年前に先生に対して、見えていなかったのは、強さ、礼儀正しさ、頭のよさ、凄さ、信念の奥にある愛でした。
愛があるから、人と関わる。でも、人は、変えれない。でも、その人が愛に気づくと、変われる。
人と接する。本気で、接する。凄いパワーがいります。でも、愛があれば、大丈夫です。
宇城先生、カッコイイと思います。
勉強になりました。
ありがとうございました。
物の見方とか、認識の仕方というのは、大事で、
15年くらい前に居酒屋で、お昼のアジフライ定食を食べている時(タルタルソースが、絶品)、
隣のテーブルで、大工さん達が話をしていた。
隣の人に向かって、「あれだよなぁ。人柄良くたって、腕がなけりゃダメだよな。」
という話が聞こえてきた。
それまでの私は、整骨の世界で、鬼や悪魔という人達と接していたので、(優しい人がいる所もありました。)
(ストレスで、お腹が激痛になったり、足が曲がったりしました。)
どう考えても理不尽な事が多く、人を大事にしないそんな考えかたは、ダメと強く思っていました。
その時の私の考えは、技術より、人間性と思っていました。
ところが、大工さんの話を聞いて、人柄が良くたって、腕がなけりゃダメというのが、そうだなと思いました。
家がいい加減に造られたら、家に住む人が困るなと思いました。
そこで、技術も、人間性も両方大事だなと思いました。
頑固ジジイという人がいるとします。
その人が協調性というのを学ぶと、頑固ジジイが、こだわりを持ったプロフェッショナルになります。
その姿勢に、人間性を大事と思った人が、仕事は、徹底して頑張るというのを、学び、
私の仕事もしっかりしながら、協調性のとれている人になると思います。
ヌーソロジーでは、数学や、物理学で、力の関係や、認識の仕方を表しています。
私は、算数の段階を超えると、怪しい人なので、理解に時間がかかるかなと思いますが、
こういう風に、客観的に、示して頂くと、それを、普段の日常生活で、実践してみて、
そこで、腑に落としていく事が出来るのかなと思います。
昔、意味も分からず公式を覚えて、それで、どんどん解いていくうちに、あっ、そういう意味か?
という感じかなと思います。(まだ、あまり理解していないのに、書いています。)
半田さんとお話して、いいなと思ったのは、今持っている考えかたとか、概念があったとして、それと反対の考えかた
とか、反対の概念を統合する。その裏に統合されたのの分解されたものを持つ。
これが、一単位。
例えば、黒と白がある。
これが、お互いが正しいを主張すると、争いが生まれる。
黒さん、白さん仲良くしましょうよ。
仲良くなる、これが、統合。
でも、裏側に、。黒さんは、黒さんの良さ、白さんは、白さんの良さがある。
これが、中和。(なんとなくの理解です。)
どんなものがきても、反対のものがきても、仲良くという姿勢がどんどん広がるループの感じがした。
半田さんと、冠光寺流の師匠は、話した事があるそうです。
繋がっていますね。
ヌーソロジーは、コミュニケーションが苦手な方が、そのメカニズムを理解すると、
人生がどんどんうまくいく気がします。(せっかく写真を撮ってもらったのに、写っていなかった。残念。)
日曜日に半田さんを囲む会というのに、大阪まで行ってきた。
半田さんは、ヌーソロジーというのを、提唱されている。
普段、みんなが、同じ物理空間にいて、そこに、私がいて、あなたがいてと思っている。
その認識の仕方は、はたしてどうなのか?
という人の認識のメカニズムを、解説しながら宇宙を考える哲学である。
今、私なりの理解での感想を書くとすると、みんなが心と思っている(内面)と、いろんな出来事(外面)
この内面と外面と思っているこの両方の全てが、その本人の宇宙である。(ヌーソロジーでは、内面、外面が逆。)
普段、心が穏やかな時は、出来事もいい感じ。
出来事もいい感じの時は、心も穏やか。
怒っている時は、出来事も嫌な感じ。
出来事も嫌な感じの時は、怒っている。(正確な表現では、怒りたい出来事の時の方いいけど。
嫌な感じだと、泣きたいとか、悲しみも出てしまう。)
だから、頭にくる出来事があると、怒るというのは、分かりやすい。
逆に、怒りを持っているから、頭にくる出来事が起こる。(我の無い状態の時、相手の感情が入ってくるとかは、除く。)
内面と外面が一致している。
内面と外面は、別物と思っているかもしれないが、そこについて、どんどん分かれば分かる程、人生はより自由になる。
そうして、内面と外面の全てを分かった時、本当の自分を知り、何でも創造出来る。
あくまでも、その本人の宇宙なので。(まだ、実証してないので、実証出来た時に、報告します。)
これで、やっと、自分を知るという所だそうです。
私も以前は、そうでしたが、コツコツ地道に一歩、一歩、日常生活を送りながら、
一方で、宇宙の根本が分かれば、人生は楽なのになぁと思っていた時期があります。
前者は、頑張る!後者は、楽したい!
努力、根性で生きてきた私は、以前、治療の師匠や、人生の師匠と努力比べしていた時期がありました。
師匠達と比べると、まだまだだなと思いました。
でも、師匠達に質問してみると、苦しんで努力している分けでないというのが、分かりました。
その時の私から見ると、必死に頑張っていて、そうなったと思っていましたが、
聞いてみると、楽しいそうです。
不器用だけど、努力、根性で頑張ってきたので、以前の私は、頑張らない人は嫌いでした。
私は、無理してでも、頑張っているのに、なぜ、頑張らないのと思っていた時もあります。
仕事は、頑張らなきゃいけないという価値観があります。
昔、考えた事があります。
ある先生が、Aという整骨院で、十段階で、十の評価だとします。
Bという繁盛している整骨院では、十段階で、五の評価になります。
Cという名人のやっている整骨院では、十段階で、零点零一の評価になります。
(実際問題は、面接で、アウトだと思いますが。)
本人なりに、頑張ったとしても、そこの院長次第で、「そんなの頑張ったとは、言わないよ!」とか言われてしまいます。
評価って、相対的で、難しいなと思いました。
そもそも人を評価していいのか?と悩みました。
となると、人の評価は、その評価する人次第なので、評価する人と合うと、高評価、合わないと低評価だなと思いました。
個人という意識で、生きるならば、評価は、その人自身が納得するかどうかで、本人が決める。
(私に嘘はつけない、私が、知っている)
ヌーソロジーでは、円心という概念がある。
一つの点(中心点)を中心に円を書く、もう一方は、その円周に、点(中心)を取って、円を書く、
すると、二つの円が、重なった感じになる。
説明では、円の中心と円周は全く相対的な関係であり、見方によってはどちらが中心でもあり円周でもある。
(この関係は、ミクロとマクロの関係でもあり、反転の関係でもある。)
この概念を正確に理解すると、いいですよと書いてある。
週末にノンデュアリティの講演会のはしごをした。
14時~17時40分までが、大和田さん、溝口さん、阿部さんと
特別ゲストの堀澤祖門さんの講演会。
18時30分~21時30分が、じゅんころさんの講演会。
各公演会とも、質問の時間があった。
いろんな質問があったが、まとめると、私は、これを、こう思っているのですけれど、ノンデュアリティだと、どうですか?
とか、この意味は、ノンデュアリティだと、どう思いますか?とか、ノンデュアリティになると、どう変わりますか?という感じだった。
いろんな質問を聞いていて、質問者の視点と、回答者の視点が違うなと思った。
質問者のみんなは、私という個人の意識で、私は、これを大事に思っているという価値観で、聞いている。
それに対して、回答者が、起こっていることしか起こらないとか、起こっていないという感じで答えている。
ノンデュアリティという視点になると、永遠というもの、その上で繰り広げられる表現が安心して見ていられる。
永遠というものが、私という本体だと分かると、私(すべて)は、絶対傷つかないので、その個人の人生で起こる全ての事は、
浮かんでは消え、浮かんでは消える泡のようなものと思えるので、それに、執着しない。
でも、質問者のみんなは、その目に見える表現の方に囚われてしまっている。
そこで、みんなは、どうしたら、ノンデュアリティになれるかと思ったりする。
阿部さんによれば、大和田さんは、ぼーっとしてたら、なったそうだ。
溝口さんは、椅子から、立ち上がる時になったそうだ。
阿部さんは、興味のある人は、試してみてって笑いながら、言ってました。(ぼーっとしながら、椅子から立ち上がるといのは、どうでしょう。)
ノンデュアリティでは、本当は、私がしている事、思っている事は、私がしているわけではないんですよと言っています。
であるならば、嫌いなあいつの言うあの言葉、行動は、あいつが言いたくて言っているんでないと思えるかもしれません。
また、相手に対して、つい、出てしまった傷つけてしまったあの言葉で、そんなに後悔する必要がないかもしれません。
そうは言っても、なかなか思えないかもれません。
悩む原因のひとつに、比べるがあります。
いろんな師匠、誰が、一番か?
いろんな教え、どの教えが一番か?
いろんな世界観、宇宙観、どれが、一番か?
そこで、出来れば、一番を知りたいと思ってしまいます。
ポイントは、今、その人にとって、一番納得出来るもので、心が楽なるものだと、いいかなと思います。
私自身が、実践してどんどん楽になってきたのは、調和とか、平等とかを基準にしていることです。
仕事が出来る人も、出来ない人もいるが、人間的価値は、同じ。
力の強い人も、弱い人もいるが、人間的価値は、同じ。
お金を持っている人も、持ってない人もいるが、人間的価値は、同じ。
汚れている人も、綺麗な人もいるが、人間的価値は、同じ。
頭のいい人も、悪い人もいるが、人間的価値は、同じ。
権力のある人も、無い人もいるが、人間的価値は、同じ。
優しい人も、意地悪な人もいるが、人間的価値は、同じ。
いろんな人がいますが、人間的価値は、同じというのを持っていると、
頭にくる人、嫌いな人に対して、段々と思いが変わってきます。(実践済み)
じゅんころさんに、彼氏に対して、どういう感情何ですか?と質問している人がいた。
ノンデュアリティの人がどういう感情か気になるらしい。
彼氏という、特別な存在が、ノンデュアリティだとどうなるのか?
じゅんころさんのお答え、目の前の事をしてる。
一般的には、連絡ないなとか、どうしているかなと思うかもしれないが、そこが、違うなと思った。
そういう気持ちが起これば、するだろうし、という感じだと思う。
今、この場所にいて、この一瞬で消える起こる事を、大事にしていくと、悩んでいる暇はない。
みんながそれぞれのペースで、本人なりに、一生懸命頑張っていると、後悔のない人生が送れると思う。
昔から、よく、山登りのリーダーに、松岡は、こう思うと、それだけになっちゃうからなと言われていた。
例えば、左の道と、右の道があるとする。
リーダーが、左の道がいいと言う。
私は、どうしても、右の道に行きたい。
そして、右の道に行って失敗する。
やっぱり、リーダーの言ってた通りですね。と言う。
そして、また、次も、同じ失敗を繰り返す。
もしかすると、初めから、左の道しかないと決められていたとしても、どうしても、私のその時の意識を納得させなければ、先に進めない。
そうして、失敗しても、失敗しても、納得しながら、進んでいくと、少しづつ、少しづつ、楽になってくる。
だから、Aのやり方で、ダメなら、Bのやり方、Bでダメなら、Cのやり方、Cでダメなら、別のやり方、とにかくいろんなやり方をして、
泥臭くても、カッコ悪くても、本人が納得出来るまで、やればいいと思う。
と不器用な私は、不器用というコンプレックスを、バネに頑張れている。
せっかく、生まれてきたのだから、それぞれの生きたい人生に、真っ直ぐ正面から、向き合いましょう!
上江洲先生は、波動は、形、香り、色、音色があると仰っていた。
瞬間移動とか、治せるとか、悟りには、関係ないと仰っていた。(つい、出来たらいいなと思ってしまいますが。)
光がどんどん強くなり、闇が現れる。
今までは、その本人の中で抑えられていたいろんな感情が抑えが効かなくなるそうです。(つい、怒りが、本音が出ちゃうそうです。)
先生の話を聞いて思いましたのは、波動というのが、集まって、物質とかになるんだろう。
私自身、患者さんと接する上で、すべてを分って、何でも出来て、その上で、接したいというのを、常に持ち続けていたのですが、
凄い能力というのに、囚われるより、永遠の命というのが分って,今持てる力すべてで、患者さんと向き合えばいいんだなと思いました。
凄い能力は、つい心が出来ていないと、天狗になります。
先生の話される道具に使われるようになります。
この会場で、偶然、久しぶりに、右京さんに、お会いした。(近況を聞いた。)
元気そうだった。(また、そのうち、どっかで、お会いするでしょう。)
みなっしーお薦めの太陽のトマト麺を、山登りのリーダーと食べた。
なかなか美味しかった。
その後、1年ぶりに、カフェした。
日曜日に錦糸町で、上江洲先生の講話があった。
以前から、一度話を聞いてみたいと思っていた。
上江洲先生も冠光寺流の師匠と同じように、愛の人だと思ったので、是非、会いたいと思っていた。
先生は、愛、調和、完全、平和だと、問題は、起こらないと仰っていた。
みんなは、中身より、外側の衣装ばかり、気にすると話されていた。
知り合いの先生が、お金からの解脱(解放)は、どうしたらいいでしょうか?
お金が無くても困りますし、どのくらい稼いでいいのでしょうか?と言う意味で、質問していた。
それに、対して、上江洲先生は、こんな話をしてくれた。
私が、スーパーに奥さんと、買い物に行って、奥さんが買い物している時に、駐車場で、車で待っていると、
(私が買うものは、色紙とか、必要なものだけ、奥さんが買うものは、生活に必要なもの(食料品とか、だけ)
一台の高級車が停まった。
すると、その運転していた人が、少しして、戻って来て、傷が付いていないか調べて、また、スーパーに行った。
そして、時間が経って、また、傷が付いていないか調べていた。
私の車なんて、雨漏りがして、傘をささないとダメなのに。(みなさんは、そんな車見た事がありますか?と仰っていた。)
あるお金持ちが、イエス様にあなたについていきたいと言った。
次に、ついていけないと言った。
イエス様は、人間には、出来ないけど、神には出来ると仰られた。
この2つの話を聞いて、思ったのは、お金は、本人にとって、必要な分だけあればいいという事と、(多すぎても、少なすぎても、葛藤が出てくる。)
なかなかお金に対する見方を変えるのが難しいという事。
みなさんは、親子3人贅沢は出来ないけど、笑顔を絶えない幸せな家庭と、
親子3人贅沢はしているけど、心の通っていない寒々した家庭どちらを選ぶのでしょうか?(両方いいとこ取りでも、大丈夫です。)
治療家の人の場合は、お金たくさんもらっていいのか?悩む人がいます。
それを、お金は、感謝の対価という考えが持てれば、お金は受け取り易いと思います。(金額は、その先生の納得する金額で、そこに、大小はありません。)
私から見る上江洲先生の世界観は、まず、永遠の命をベースにしています。(これを、みんなの正体とか、すべてとか、本質という事だと思います。)
その上に、肉体という衣装を纏った魂があります。
魂は、感情とか、理性とか、先生は、見えない道具という言い方をしております。
お金は、道具という人がいます。
道具を使えば幸せ!
道具に使われれば不幸せ!
先生の仰りたい事は、道具は、本来、人を幸せにするものなのに、
なぜ、その道具のよさが分からず、振り回されないといけないのか?(感情という道具に振り回せれている人多いですよね。)
という事だと思います。
先生は、
吸息=愛・神
吐息=愛・神
と仰っております。
ある女性が、相談に来られ、その女性が吐いた息が、
飛んでいたハエにかかり、死んだそうです。(それを、実際に見たと先生は話されておりました。)
息⇒自らの心
と書きます。
その吐息が、恨み、怒り、嫉妬であるならばどうなるんでしょうか?
と話されておりました。
といっても、そう思う時もあると思います。
そこで、そういう時に、そういう気持ちを持つと相手にダメージを与えるというのが分かったうえで、言葉を吐こうとすると、
相手に対して、寛容な心が持ち易いと思います。
先生が最後に、
「人の前に立つものは息をしらなければならない!」
と仰っておりました。
勉強になりました。
ありがとうございました。
昨日、お昼で、仕事が終わり、スーパー銭湯に行き、身体を回復させ、その後、ブロンコビリーで、ステーキを食べた。
以前から、受付のみなっしーに、院長、美味しいですよと言われ続け、ようやく、行く事が出来た。
みなっしーお薦めのミスジステーキと、プレミアムステーキを頼んだ。
焼き方は、と聞かれ、ミディアムと、言った。(実際は、レアな感じだったので、ウエルダンにしておけば良かった。)
両方食べたが、あまり違いは、分からなかった。(おこちゃまな私は、ステーキより、ハンバーグだな。)
とりあえず、先延ばし、ひとつクリアー。
もうひとつは、魚を焼こうと、コンロの上で、網をおくと、直ぐ、安全装置が働いて、火が消えてしまう。
魚は食べたいけど、魚が焼けない。
うーんという思いで、先延ばしにしていた。
今日、魚焼けるというフイッシュロースターというのを買った。
これで、クリアー!
DVDで、新宿スワンと、Zアイランドを観た。
どちらも、面白かった。
8月13日から、16日まで、お盆休みだった。実家の木更津に帰った。
初日は、三井アウトレットパークに行き、父親の登山靴を買い、つけ麺とみたで、つけ麺を食べた。(一度、行ってみたかった。)
二日目は、高宕山に山登りに行った。(先月よりは、楽だった。)その後、スーパー銭湯に行った。
父親と弟の身体のメンテナンスをした。
弟の赤ちゃんが、泣いていた。(パパが(・(ェ)・)ゴローにやられていると思ったのだろうか?)
三日目、四日目は、ゴロゴロした。
のんびり出来て、よかった。
月曜日にみなっしーから、北海道のお土産を頂いた。(みなっしーに、院長、ウニ高いんでちゃんと、食べて下さいと言われた。)
お土産、ありがとうございます!
しっかり、充電したので、これからも、どんどん頑張っていこうと思う!
日曜日に久しぶりに、父親と地元の高宕山に登った。
家で、準備している時、父親は、なぜか、鼻を蜂に刺され、私は、五本指の靴を履こうとしている時に、指を怪我して血が出てしまった。
そんな負傷している二人ではあったが、山を登っていると、鳥や、蝉等の声が聞こえて、自然を感じる事が出来た。
山によって癒されるのは、人によっていろいろだと思うが、私の場合は、山をただ感じる。
この状態になっていると、葛藤がないので、ストレスがない。
そうはいっても、炎天下の中の山登りは、最後は、くたくたのぼろぼろだったけど、非常に、よかった。
帰ってから、スーパー銭湯に行って、水風呂で、身体を冷やす事をしたので、身体の疲れは大丈夫だった。
今後は、山によっての感じ方の違いが、どう身体や心に影響するかを、検証できたらと思う。
間違いなく、私の場合は、山登りで癒されるので、この癒されるメカニズムをもっと、詰めていきたい!