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院長 | 松岡 良一 |
Blog記事一覧 > 好きなもの|千葉県市川市行徳駅前 松岡整骨院 - Part 47の記事一覧
本の中に、アイキモードという言葉が出てくる。小磯さんは、会長にかけられたり、会長のアイキモードと、お手合せされている。その中でも、一番のアイキモードが、高荻さんとの自主稽古の時は、まさに、武神が舞い降りたような状態と書かれている。
小磯さんが、会長から、「当たってもええねん。『受けよう』という気持ちを捨てて、『迎え入れる』でやる。そうすると、攻撃した相手の反応も狂うし、技も決まる。」と言葉や、
炭粉先生からは、「合気とはある意味、全く相手と歩調を合わせないことで相手をギョッとさせる行為のことです。人同士が格闘する時、自由に攻防しているつもりでも、実はお互いに『格闘する』という約束をしっかり守っているのです。それを舞いなどの別の行為にすり替えることで、相手がよく見えてきたり、スローに見えてきたりする現象が生じます。何せ、『格闘する』約束を反故にするのですから。約束事とはつまるところ、脳が『~しなければならない』という思考のフィルターを通すことですから、その分遅くなるのです。」要するに、受けようとした時点で筋力の反応が起きる。そうではなく、迎い入れることで別の動きが身体の中で始まるのだ。そのような体験がいきなりのアイキモードにつながったのであろう。以降、何度かこの現象を体験した。攻撃してくる相手にこちらは闘う心一切無し。にもかかわらず、相手の動きが事前に見えて速く反応できる。と小磯さんは、書かれている。
ベンジャミン・リベットのマインド・タイムという本の中で、認識に、0・5秒かかるというのがあります。つまり、みんなが今と思った事は、0・5秒後の過去を、今と認識している事になります。時間の概念は、その人の意識によって、様々だと思いますが、一般的には、過去があり、現在があり、未来があると考えいる人が多いと思います。これを、未来は、少し経つと、現在になって、もう少し経つと、過去になると考えてみます。川に例えると、川の上流が、未来、中流が、現在、下流が過去です。みんなが思っている今は、本当は、過去なので、結果は、決まっています。その決まった過去を、今と認識しています。つい、先日、懇意にさせて頂いている行徳の先生と、話していて、みんなは、今と思っている、この過去にアプローチしているので、上手くいかないですよね。という話が話題にのぼりました。川の下流の過去より、上の中流に、石を置くことが出来れば、みんなが現在と思っている今(本当は過去)を変える事が出来るのかなと思います。(別に事象に対して、囚われがなければ、起こる事が決まっていても、大丈夫ですが。)
高荻さんは、第三の合気「合気モード」として、こう書かれている。
合気修行者が「合気モード」と呼ぶ「無念無想の境地」がそれである。筆舌尽くしがたい世界なのだが、私は、氣空術を学ぶことによって、幸運にもその初門に至ることができた。いったん合気モードに至れば正に自在。余計なことは何も思考する必要はなく、ただ触れるだけで相手は崩れ倒れていくのだ。技術を捨て、思考を捨て、自分自身すら意識に登らせることなく、全てあるがまま。水が流れるように動くだけで目前の敵はことごとく敵意を失っていく。たとえるとするなら、正に「天上天下唯我独尊」の境地である。
高荻さんは、氣空術を学び、氣空術の素晴らしさを知り、吉彦さんからは、冠光寺の愛魂上げをしてもらい、上がる体験をされ、下村さんとの自主稽古で、愛魂を体験されました。そこで、愛に対する感度が上がったのかなと思いました。そうして、炭粉先生との痛み稽古で、炭粉先生の想いを感じ捉え、会長や炭粉先生が掴んでいる感覚を体験されたのかなと思います。更に、下山さん、谷内さんとの自主稽古の自由攻防で、正しく、炭粉先生の痛み稽古の炭粉先生の立場になり、合気モードが発動されたのかなと思います。
愛って、男女の愛とか、親子の愛とか、動物の愛とか、無償の愛とか、いろんな愛があると思います。
無償の愛は、禅の自分も他人もなく同じように考えられる境地と同じだと思います。
私的に分かるのは、我欲がないと、相手とぶつかるべきものがないので、その人と、対峙したとき、相手は、愛を感じるようです。
高荻さんが、こう書かれている。
実際の攻防戦に於いては、我々は常に相手の思考や動作に心が捕らわれてしまう。視野は狭くなり、呼吸は浅くなる。恐怖故に相手から目を離すことも、心を解放することもできなくなる。所謂、固まった状態になってしまうのだ。正に相手に(環境に)呪縛されたかのような状態に陥りやすくなる。剣術の世界ではこのような膠着状態を「合気」と呼び、避けるべき状態であると教示してきた。対して、この状態から離脱することができれば、初めて真の自由を得、心身ともに自在に動けるようになる。人間の魂は歓喜し、まるで舞を踊るかの如く自然に開放されていくのだ。受けはどれほど意識して攻め込もうとも、こちら側に影響を及ぼすことはできない。その状態は己の外で発生する事象全てに捕らわれることを嫌い、多くの信号を無(零)に帰してしまうからだ。逆に仕手側は、受けの身体に触れるだけで「かけるべき合気」がは発動する。受けにしてみれば、触れられた箇所からは、護身に供する十分な情報が伝わったこない。また、どの箇所にどのように質量が伝達されているかをいつものように察知することができなくなる。仕手の不思議な状態に気が付いたときには、時既に遅く、バランスを立て直そうとしても、もう間に合わないのだ。既に体の軸はゆがめられ、もはや立っていることができなくなるのである。これこそ「かけるべき合気」ではないか。この「観の目」の境地を得て初めて、「かけるべき合気」と「避けるべき合気」の矛盾がことごとく消失するのである。
高荻さんと、小磯さんは、今まで、数々の実戦を積んでこられ、合気モードを知っている会長と、炭粉先生に出会い、お二人もその境地に至る事ができたのかなと思います。
合気モード、いつか、是非体感したいと思います。よろしくお願いします!(*´∀`*)
今回、氣空の拳を読みまして、この本に出ているみなさんの熱い想いが、とってもいいなと思いました。
やっぱり、真剣に追い求めるその姿勢に、ちゃんと、結果はついてくるんですね。
ありがとうございました。
松岡良一
小磯さん、高荻さんの共著、「氣空の拳」という本を読んだ。
氣空術を学んでいるお弟子さんが書いた本だ。
小磯さんは、元キックボクサーの方で、高萩さんは、空手をベースに、いろんな武術をしていた方である。
いいなと思ったのが、小磯さんの、心情が書いてある所である。
真剣にずっと、やり続けている方なので、その中で掴んできてきたものがある。
だから、で、実際どうなの?となる。
そういう、心の熱い思いを、正直に書いてある。
それは、それだけ真剣に関わってきた事だから、試さずにはいられないと思う。
それを、実際にやってみて、その事の考察を書いてくれている。
「氣空術は、この感覚で得る動きが数多い。考えるのではなく、感じる。それによって、技の感度や感覚を心と身体で練り上げていくのだ。」
「稽古では、以前、自分がやっていたような、かかるものか、は間違い。初めのうちは、お互いに感知して確かめ合いながらの稽古が、力は入れずに出す、を知ることにつながっていくと思う。むろん、相手に合わせてかかってあげる、は間違い。それでは、技の習得にならない。稽古の雰囲気を楽しむのはいい。しかし、楽しむあまり、わざわざ、相手に同調して、かかってあげる状態、にするのは単なるラポールだ。これでは相手ばかりか、自分の稽古にもならない。技(動き)がある程度のレベルできるようになれば、相手が力任せで対応しようが簡単に投げ、崩すができる。できるようになったら、より、感覚の精度を高めていく。支部稽古でできたからといって、それは、会得、には及ばない。どんな場面でも、使える技、とするからにはやはり、修練を積む以外にない。何度も繰り返すようだが、武術の技、インスタントでできるようなものは何一つとしてない。地道な繰り返しの中から体得していくしかないと思っている。」
と、書かれている。
私も、最初の頃、黒帯の人を相手に力試ししたりしていた。これをやると、我が出て、愛が出なくなってしまった。力を出すと、感覚が感じられない。そうして、黒帯の人のプライドを傷つけてしまった。それからは、相手を見て、やるようにした。黒帯の人の中に本気でやらなきゃダメという人がいた。でも、そうすると、強い方が勝ちになるんじゃないかと思った。ある黒帯の人とやると、岩のように全く動かかなかった。そして、寡黙な人だったので、私はやる度にダメだなと無力感を感じた。幸い、いろんな先輩方がいて、導いてくれたお陰で、うまくいったり、いかなかったりを経験さして、頂いた。
ある有名な武術家の方に、教えて頂いている時、力で対抗してみようと思って、やってみた。すると、やってもいいいけど、何でもありになるよと仰られた。(えーっ、そんなつもりじゃないのになぁ、と思った。(´・ω・`))そこで、思ったのは、何かを学ぶ時は、それに、限定しないといけないだなと思った。
一方で、かかってあげるのは、間違いという考え方がある。それは、かかってあげるという事をすると、それを、つい、私の実力と勘違いしてしまうから、ダメだという考え方である。
じゃあ、私より、実力のある人が本気出したら、何も出来ないし、かと言って、かかってあげるのは、相手の為にならないし、どうすれば、いいんだ?となるかもしれない。
この両方を満足させる為にどうするか?
それが、小磯さんが書かれているように、初めのうちは、お互いが感知して確かめ合いながらの稽古がいいと思う。
私であれば、今、このぐらい来ているよとか、身体のここまで、来ているよと、伝える感じにしている。
また、相手の方に、どんな感じですか?と聞くようにしている。
人の身体って、みんな違って、ある一定の強さを、1と感じる人、5と感じる人、10と感じる人がいる。身体の大きさや、筋肉の強さや、反射神経や、スタミナが違う。心の方でも、協力的な人や、非協力的な人や、敵対心を持っている人もいる。だから、上手くいく相手や、上手くいかない相手が出てくる。本当は、全てを分かった人がいて、私は、レベル1000で、完璧です。私から、みると、あなたは、中心からの力の伝え方、不十分で、立位の時と、座位の時の身体の使い方が、違います。敵対心の強い相手の時は、あなたの心が萎縮してしまって、あなたの普段使える力が、45パーセントまで落ちます。あなたのレベルは、254ですとか。そんな人がいたら、楽でいいのですが、そうもいきません。みんなの「ものさし」は違うのだから、うまくコミュニケーションをとるのが、大事になってきます。そうして、いろんな人とコミュニケーションをとって、総合的に判断して、技術を高めていくのが、大事だと思います。
小磯さんの熱い思いが、そのまま、研究の原動力になってる感じがしまして、その時、思った、本音を書いてくれているのが、いいなぁと思いました。勉強になります。ありがとうございました。
昔、ある時、例えば、アフリカの人に、日本の情報があれば、凄く生活が便利になるのにという話をしていて、その為には、アフリカの人がその情報を手にいれるにはどうしたらいいか?という質問を、山登りのリーダーにした事があった。この質問の意味は、今、いる所と、別の場所では、文明が進んでいて、今いる所の人が、進んでいる所の情報が手にいれられれば、便利なのになぁ、からの質問であった。それに、対し、リーダーは、その人、その人によって、その場所にいる意味があるので、という感じで答えてくれた。この当時の私の考えは、便利な方法を使うであった。
今は、どう考えるかというと、例えば、アフリカのある部族が狩りをするとする。そこに、ライフルというものを持ち込む。すると、狩りは、楽かもしれない。便利である。一方、ライフルがない部族の人は、木の槍で、狩りをしていたとする。すると、ライフルと違って、狩りは、楽ではないので、槍の尖らせ方を考えたり、木の種類を考えたり、獲物の習性を考えたり、獲物の追い込み方を考えたり、いろいろ工夫すると思う。便利は、楽でいいが、考える力を奪う。元々、便利なものを生み出すのは、不便があって、それを、解決した結果が便利になるのではあるが。ライフルという武器に頼っている人は、槍を使っている人より、身体を使っていないので、身体が弱くなる。便利なものに頼ると、本人のいろんな力が弱くなる。
便利じゃない状況だと、工夫しなければならないので、苦労を知っている。苦労を知っていると、感謝の気持ちが生まれる。
便利が当たり前になっていると、感謝の心が持ちづらい。
私が、ある部族の生き方をしていたら、いろいろ大変かもしれないが、毎日、生きるという事だけを考えて、充実した生活を送っているかもしれない。
一見、便利という事は、よさそうだが、もしかすると、別の喜び、を奪っているかもしれない。
また、違う視点から見ると、便利になった分、本人の興味のある事に時間を使えるという場合もあると思う。
便利というのは、効率を求めている人には、喜ばれる。
ただ、いろんな人を見ていると、仕事が出来るというのは、たくさんの事が時間内に出来るのが、仕事が出来る人と思っている人が多いが、そんないろんな事を処理出来る能力が高いと言われる人が、以外と、本人の求めるものは、そこにはなくて、本人の感じる充実感だったりしている。
便利な世の中になれば、なるほど、簡単に出来ない事は、面倒くさく感じるかもしれない。
便利な世の中になれば、なるほど、苦労はしなくていいかもしれない、でも、苦労というものは、充実感を生んだりする。
苦労したから、大切にする。苦労したから感謝の気持ちが分かる。
物事は、捉え方次第で、どうとでもとれる。
という事は、同じ事を見ているつもりでも、人によって、全く違う見方をしている。
考えるのが、苦手な人は、いろんな意見を聞いて、その中から、自分に合うのを、選択するのが、簡単かもしれない。
行動するのが、苦手な人は、いろんな人の行動を見ていて、その中で、やれそうなものを、選択するのが、簡単かもしれない。
どう生きようが、その人の人生、であるならば、好きに生きたらいいと思う!
マイ・インターンという映画のDVDを観た。
内容は、インターネットで洋服を扱う、若き女性社長と、会社を定年したシニアの人がこの会社にシニアインターンとして入っての物語。
この映画を観て思った事は、世の中が、どんどん便利になってる分、傷つけない、傷つけられないという表面的な関係が生まれたり、逆にバーチャルがリアルになったりしているなと思った。そして、求めているのは、人と人の繋がり。どこまで、その人と関わるか?どれだけ真剣に関わるか?それには、パワーがいる。直接的に関わる方が、失敗した時、ダメージが大きい。でも、洗練されたやり方より、より、その人が出るので、本人的には、納得し易いと思う。ひとつ、ひとつ、やり方に拘って、私らしさを見つけるのが、本人にとって、納得の人生になるのではないかと思う。その時、その時の本人の持っている意識が納得を目指すのが、人生を有意義に過ごす秘訣だと思う。私の求めるものに、妥協しない。なぜ、こういう事を私自身が書いているか、客感的に眺めてみた。そうすると、見えてくるのは、本人が制限を創って、本人が制限によって、縛られて、苦しんでる人が多いなと思っている私がいる。なぜ、苦しんでいるのか?それは、本人が創っている制限に気づかないからだと思う。では、どうすればいいのか?ひとつは、人の話を聞く。ひとつは、本人自身の判断をひとつ、ひとつ検証して、それは、本人が本当に納得している判断か確かめる。知らずに、親の判断、知らずに、日本の常識、知らずに時代が入ってたりする。出来るだけ、多くの情報を集め、相反する概念も置きながら、その中で、本人納得の答えを見つける。拘りがある意識の時は、とにかく、何でも、思いっきりやれば、本人納得の人生となると思う。拘りがない意識であれば、物事をただ、楽しめばいいと思う。その本人にあわせて、お好きな方、どちらでも大丈夫です。(*´∀`*)
昨日、炭粉先生の稽古に参加した。
炭粉先生の本は、全部読んでいるので、いつか、是非会いたいと思っていた。
本を読んだ感じでは、強い、荒々しいイメージと愛かなと思っていた。
最初、なんかいい感じの人だなと思ったが、こういう人という言葉が浮かばなかった。
実際にお会いしてみると、外見からは、パワーが溢れる感じがし、内面からは、お人柄の良さが滲み出る感じがした。
ただ、この言葉でも、先生を言い表せていない感じがした。
先生は、先生が実戦を通して掴んだものを、稽古で教えてくれた。
稽古の内容は、先生の許可をとってないので、書く事が出来ないが、真剣でないと怪我をすると思った。
ただ、それでも、先生が全身全霊をかけて、教えててくれているので、覚悟をもった私達は、その先生の姿勢に
答えようと、必死で頑張っていたと思う。
私などは、鈍い方なので、ただ、先生の教えてくれることを、ただ、そのままやろうと思って身体を動かしていた。
逆に、武道、武術で、ずっと、鍛錬している人は、無意識に身体が動くので、それを、先生は指摘していた。
炭粉先生、流石だなと思ったのが、合気(愛魂)の中で、例えば、ある先生が合気(愛魂)をかけた時、
相手の方が、可哀想と思って、協力してあげた時、これを、やらせというのか?(炭粉先生)
人によっては、心を動かしたというかもしれないし、協力した時点で、やらせというかもしれない。
多くの人は、やらせと思うかもしれない。
でも、筋肉楽なんだよ。
と、先生が話してくれた。
炭粉先生が、仰りたいのは、たぶん、以前、ある伝説の達人のお弟子さんとお話した時、そのお弟子さんは、師匠と
相対した時、私自身は、分からなかったのだが、崩されていた。
私に、対しての説明では、お弟子さんの1メモリが1センチとすると、師匠の1メモリは1ミリだから、
お弟子さんは、師匠の動きを感知出来ないという事だった。
だから、合気(愛魂)がかかってないと思っている人でも、筋肉が楽という事は、実は、かかっているんですよと、
仰っているんだなと思った。
ここで、いろんな視点という所で、見てみると、合気(愛魂)をかけているAさん、合気(愛魂)をかけられているBさん、それを、見ているCさんが、いたとする。Cさんの視点からは、外側からだけなので、動きで、うまくいったか、いかなかったか?という見え方だと思う。Bさんの視点からは、本人が感じ取れるか、感じ取れないかで、うまくいったか、いかなかったとなる。Aさんの視点からも、本人が感じ取れるか、とれないかで、うまくいったか、いかなかったという事にも、なると思う。
炭粉先生の場合は、Cさんの視点でも、合気(愛魂)がかかっているのが分かる。
炭粉先生を東京駅まで、お見送りして歩いている時に、炭粉先生に、先生の本読んで、保江先生に、炭粉先生、分かって良かったですねという話をしたら、保江先生が、炭粉先生、頭のいい人だからねと仰りました。その話をしましたら、炭粉先生は、あのブログ書いてる?そうです。そうです。と返事をしました。FAX送ったよと仰っられましたので、営業FAXが多いので、今、使ってないですよと申し上げました。(あ~あ、せっかく先生がFAX送ってくださったのに、残念。)
そして、先生に、先生が保江先生と出会ったのも、よかったですし、保江先生も炭粉先生と出会って、実戦を経験して、お互いよかったですよねと伝えました。
今回、勉強になったのは、炭粉先生は、全身全霊をもって、みんなに伝えたい事は、実践で、その愛は使えるのか?
という事だと思いました。
もし悪い奴が襲って来たときに、それに、対応できるかという所を心配されていると思いました。
世の中には、いろいろな人がいます。
話して、分かる人もいますし、分からない人もいます、道理の通用する人もいますし、滅茶苦茶な人もいます。
でも、先生の伝える愛が分かると、本人も安心ですし、その悪いという奴の心も救えるかもしれません。
人によって、許せる範囲が違います。
この許せる範囲は、どう決まるかというと、今までの生き方で、こうじゃなきゃダメという価値観が造り上げられます。
社会で、揉まれると、いろんな人、いろんな考えがあるんだなというのが、分かります。
その人と、もう一人の、こうじゃなきゃダメが全く反対だとぶつかります。
私の場合ですと、以前は、努力と根性のタイプなので、その反対の頑張らない奴、手を抜く奴は、嫌いでした。
その人なりに、少しでも、頑張っているなら、分かるのですが、そうでないとダメでした。
一方で、メリハリをつけてという考え方の人もいます。
ずっーと、やると、集中力が落ちるので、休憩を挟んだ方がいいという人もいます。
いろんな考え方、やり方があります。
つい、多くの人は、一つの物の見方で、全部を見ようとしてしまいます。
人によって、その人、その人の心地よさは違うのですが。(その人、その人の正義が違う。)
ここに、対して、愛というのが持てると、価値観の違いは、価値観で判断している時は、戦いとなりますが、
信頼関係が出来、それは、新しい可能性となります。(今まで、嫌いだった人、世界が)
炭粉先生が、身を持って、教えてくださっているのは、踏み込むという事かなと思います。
今は、世の中に、たくさんの情報があると思います。
インターネットで、検索すると、知りたい事のその意味が分かります。
でも、物事の本当の意味は、あくまでも、体験して、腑に落とす所までいかないと、良く分かっていません。
その為に、その世界を、外側から、眺めているだけでなく、踏み込むという勇気を持った方が、
本人にとっても、より充実した人生を送れると思います。
新しい世界を知るには、ひとつには、出会いというのがあると思います。
好きな人とか、尊敬出来る人とか、その人の言葉なら、今までなら、そんな事違うだろうとか、素通りしてきた言葉が、
あーあっ、そういう事もあるかなと、素直に聞けるというのがあります。
そして、その人と接していて、影響を受けて、新しい世界が開けると思います。
そうして、もうひとつが、遺恨を残さないという事だそうです。
合気(愛魂)がかかって、倒れたとしたら、相手が強くてとか、こちらが、強くて倒れたとか、何か分かりません。
そうしたら、遺恨も残らないのでしょうという事でした。
最後に、今分かった、私なりの炭粉先生の人物像ですが、何かいいなと思うけれど、具体的に、言い表せなかったのですが、たぶん、炭粉先生の愛のパワーに当てられて、いい気分になっているのかなと思いました。愛が吹き出している感じ、そうすると、つい、先生の為に頑張ってみようと、思ってしまいました。男女問わず、多くの人を、魅了すると思いました。
炭粉先生、この度は、ありがとうございました。
また、よろしくお願い致します!
松岡良一
近所の美容院さんから、社員旅行のお土産を頂いた。
シンガポールだそうです。
毎年、社員旅行は、海外だそうです。
いい会社ですね。
ちなみに、松岡整骨院では、年末の大掃除の後に、ワックスが乾くのを、待つ間に、
みなっしーと、院長は、ケーキを食べ、コーヒーを飲んで一年間お疲れさまでしたという感じでやっています。
(所要時間5~10分ぐらい。)
それ以外に関しては、院長は、みなっしーに棄てられないように(笑い)、目にみえる形、見えない形で、いろいろ頑張っています。
これからは、経営者の方は、契約という形の雇用関係というだけでなく、様々な状況は、あると思いますが、
その中で、出来る範囲の社員の人に対する感謝の気持ちを表していかなければ、昔でいう愛社精神とか
一致団結とか、生まれずらいのかなと思います。(ドライな関係)
昔、不満に思っていたのは、患者さんに対して、いい顔をして、スタッフに対して、鬼の顔をしてという事でした。
離職率は、高かったです。(早い人は、半日で。)
無理している状況だと、病気になったり、トラブルが起きたりします。
また、自分さえよければという視点は、一見、本人にとって、有利な感じがしますが、
見えている範囲が狭いので、見えていない所が原因で、トラブルが起きたりします。
実際、いろいろ聞こえてくるケースで、見えてくるのは、ワガママな経営者が、
指揮を執ると、そこで働く社員の方は、大変なのですが、かといって、辞める分けいかずという
依存の構造があると思います。
お人柄のいい人が頑張って、ワガママ経営者を助けるという事で、何とか、トラブルがおさまるという感じだと思います。
だから、経営者の方は、大変だと思いますが、余裕が出たら、出来る範囲で、
社員の為にした方が、結局は、自分の為になると思います。
人が喜ぶのが、好きな人は、人の為にするのは、嬉しいと思いますが、
自分が得するのが、好きな人は、いろいろ総合的に判断して、自分が得する為に、人の為にをするでもいいんじゃないでしょうか?
普段、いつも私の為にしてくれる人と、いつも、自分の事だけする人、どちらの為に頑張りたいでしょうか。
とか、いろいろ思いが浮かびました。
お土産ありがとうございました。
みなっしーと半分個します。(*´∀`*)