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プレジデントという雑誌で、「24時間の使い方」というタイトルで特集が組まれていた。
サブタイトルで、グローバルエリート300人徹底調査と書かれていたので、この人達が、どういう時間の使い方をしているか興味をもったので、買ってみた。
感想として、忙しい人は、いろんな事をしなければいけないので、時間について考える。そして時間を大事にして、時間に対しての哲学を持つのかなと思う。
この雑誌の中で、一人の社長が、グーグルカレンダーに、全ての予定を入れているので、一元管理できていると書いてあった。その中で、予定をとにかくいれて、その予定に向かって、行動する内容を予定としていれて、無駄に考えるのを、少なくし、行動するとあった。(行動する中で、考えていくというやり方。)
もう一人の社長は、こう書いている。
かっての日本であれば、「おおよそこれくらいの仕事を、だいたいいつごろまでに」といったやや曖昧な業務項目や達成項目の中で現場が動いていた側面がある。私はそのやり方に肯定的なのだが、最近は仕事の設計や組み立てを精緻に行い、可視化するといった仕事のやり方が身についていないと、ビジネスの世界では、通用しないシーンも多くなってきた。
これを、踏まえて、この社長は、グーグルカレンダーで、スケジュールをみんなに公開し、予定をいれてもらう、社長自身の絶対空けれない時間は、ブロックしている。また、部下のスケジュールも公開されている。
この内容を読んで分かる事は、時間には、私の時間があり、それを、しっかり把握しているか、そして、私と関わる相手の時間がある。それも、把握しているか。
これを、人生で考えると、例えば、両親がいて、結婚して、子供がいる男性だとすると、両親にとっては、可愛い子供(憎たらしい場合もある。笑)であり、奥さんにとっては、ご主人であり、子供にとっては、父親であり、会社にとっては、社員であり、友人にとっては、友達である、そして、趣味を選択できる個人でもある。
と考えると、一人の人間でもあるが、いろんな世界と関わっている。その世界が分かった上で、総合的に判断すると、本人なりに、納得しやすいのかなと思う。逆に、葛藤や、トラブルが起こるのは、ひとつの世界しか見えていないとなるのかなと思う。
(相手のことが分かると、今まで、許せなかったことが、何か許せることもあると思う。その許せた分だけ、本人も楽になっている。)
昨日、みなっしーと話していて今年は、どういう年という話題になった。
みなっしーは、あっと言う間の一年で、漢字一文字でいうと、一瞬の「一」と言っていた。
私は、今年は、いろんな出会いが会ったし、出川さん好きなので、「出」だと思った。
今年の成果としては、断食35日間をして、、20代の時ぶりの80キロ台になったのは、嬉しかった。
(昔のジーパンがはけた。)
スイッチが入ると無敵モードになるのが、分かった。
振り返って見れば、あっと言う間に一年が終わろうとしている。結局、休みは、殆ど、修行か、勉強だった気がする。(たまに、山登り。)
来年は、この糞真面目な性格の私であるが、ハイテンションとか、弾けるとかが、あると、面白いなと思う。
歯を食いしばって、頑張って、弾けたいと思う。 笑
誰か、その道のプロいましたら、ご指導よろしくお願いいたします!
青木紀代美さんの「食に添う 人に添う」という本を読んだ。今回、この本を読もうと、思ったのは、送られてくるメールに、七沢さんという方が、この青木さんという人は、菩薩のような方という表現をされていたので、それならば、素晴らしい人間性を持っているかなと興味が湧いた。
青木さんのお子さんは、未熟児で生まれ、身体が弱かったので、子供の事を考えたら、食べ物と向き合う形になりました。そこで、添加物の害や、食べ物が消費者に届く仕組みあり、そこには、いろんな思惑があるのを知りました。そして、身体に良い食べ物が私達の手に届くには、どうしたらいいか仕組みを考えたそうです。
この本を読んで、人は、我が事に関係すると、真剣に向き合い、そこで、本人なりの気づきがあり、腑に落としていくんだなと思いました。
本の中で、誰かを元気づけるということは、「我を捨て、我を忘れる」ことだと思います。我を捨てるというのは、お母さんが病気の我が子のために、自分のいのちは捨ててもいいから助けてほしい、と無意識に思っているようなことでしょう。我をさておいて、自分のエネルギーを子どもに与えることでしょう。我を忘れるというのは、喜怒哀楽すべてを息子と共有し、素直に子どもに同化することでしょうか。ひたすら相手の事を考え、その人に寄り添うのです。だから、看病するときには自分の自由はありません。その人が右といったら右、左といったら左、空を飛べといったら空を飛ぶ。飛べないときは飛ぶ努力をする。「いまちょっと忙しいから」「こっちの都合もあるのよ」なんていっていたのでは、重篤な患者さんを生かすことはできません。そうではなく、ただひたすらに「イエス」をいうのです。イエスをいっぱいもらった人は不安からだんだん解放されていくのではなしのでしょうか。 と書かれています。
我を無くす事で、周りが見え、我を出す事で葛藤が生まれたりする。物事をすべて、私事という意識で捉えると、毎日が真剣になり、他人事として捉えると、私には、関係なくなる。そして、周りが他人事ばかりだと、人生がつまらなくなるのかなと思いました。
そうして、思いましたのは、結局、私の在り方が、みんなとの関わり方になると思いました。私を中心に世界がある。そして私は、世界の一部である。私という視点と、世界という視点が同じになった時、全てが分かるのかなと思います。(実際は、更に、大きな世界、更に、更に、大きな世界がある気がしますが。)
普段の生活で、添加物は身体に悪いという話を聞いて、気をつけているとします。そんな時、みんなで、ファミリーレストランで、ご飯食べて、おしゃべりしましょうということになったとします。(よく、あることだと思います。)そんな時、私は、食べないという人もいると思います。私は、添加物は、身体に悪いと思っているで、食べませんというAさんがいます。(ピシッ!)それを、聞いて、そんなの気にしなくて、いいのにと思うBさんがいます。(?)何で、和を乱すんだと思っているCさんがいます。(カチン!)私も添加物は、あまり食べたくないけど、かといって、雰囲気壊すのも、嫌だしと思っているDさんがいます。Dさんは、思いました。あっ、そうだ。お腹空いてないので、コーヒーだけにしとこう。たまには、添加物の食べ物、食べてもも、大丈夫だろうというEさんがいます。
どの生き方も、その本人の納得の生き方なら、いいと思います。もし、葛藤があるなら、本人の見えている世界と、実際が違うかもしれません。そして、その世界は、その本人が、分かっている、分かっていない関わらず、その本人が創っていると思います。