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院長 | 松岡 良一 |
Blog記事一覧 > 好きなもの|千葉県市川市行徳駅前 松岡整骨院 - Part 50の記事一覧
千田琢哉さんの「好きなことだけして生きていけ」という本を読んだ。
この本の中で、いいなと思ったのが、成功か!幸せか!
仕事か!家庭か!という二者択一でなく、対立でなく、包括的な、
千田さん、曰く、「幸せな成功者になろう。仕事で成功しながら、愛情溢れる家庭も築こう。好きなことでお金もちになろう」
という考えである。
つい、何かを求めると、何かを犠牲にしなければ、という考えかたがあるが、両方求めてもいいんじゃないですかという考えである。
子供が、無邪気に遊んでいるの、反対が、退屈な大人と書いてある。
そんな大人を、見て、子供は、そんな大人になりたいだろうか?と書いてある。
確かに、今の社会は、苦しんでいる人が多くみえる。
その根本は、我である。
私自身が、昨年、分かったのは、我には、見える我と、見えない我がある。
例えば、私と相手がいて、相手が、一般的に我が儘といわれる人で、
その相手と接した時、相手の我が儘が出たとき、
つい、あの人は、自己中だからなとか、思ってしまうが、
本当の所は、例え、相手が我が儘100%としても、私の中に我が儘が、まったくなければ、
相手の我が儘が出る事は、ない。
出る場合は、私の中に、我が儘が、5%か、10%があったりする。(相手の我を見えるが、私の我は、見えていない。)
ただ、我が儘は、信頼関係出来たら、気にならなくなる。
これは、今までは、価値観で、相手を見ていたのが、
信頼関係が出来ると、相手を私の事のように思えて見れるからである。、
これが出来ると、我が儘は、個性になる。
昔、友達が、私が任されている整骨院にスタッフとして、入ってきた。
価値観は、真逆なのに、友達として、非常に馬があった。
いざ、仕事となると、友達の時のようには、いかなかった。
その時は、何でか、分からなかった。
今は、分かった。
友達の時は、信頼関係出来ているので、何でも有りだし、彼の為ならなんでもやってあげようという気持ちがあった。
仕事の時は、当時、私の中で、仕事は、こういうものだという価値観で、友達を見ていて、(鬼みたいな気がする。表面的には、柔らかったと思うが。)
また、仕事と、プライベートは、分けなければいけないという考えを持っていた。
友達は、松ちゃん、いつもと違うなと思ったかもしれない。
友達には、悪い事しました、そんな私と今も、友達でいてくれて、ありがとうございます。
千田さんが、
幸せのすべての根源は、本人が本音で好きなことをやっているか否かだ。
好きなことに没頭すれば、好きな人と出逢い、好きな人と幸せになれる。
一度これを経験すれば、あなたは大好きなことをして生きる人生の虜になるだろう。
と締めくくりに書かれている。
今日、患者さんと話をした時、地元は、どちらですか?と、お聞きした。
患者さん 「巣鴨です。」
私 「駅前の小さな道場知ってます?」
患者さん 「昔、剣道で、通った事があります。」
私 「私、そこで、柔道、最初に習ったんですよ。」
この頃は、地元の木更津から巣鴨まで、日曜日に、2時間30分以上かけて、通った記憶がある。
思い出としては、乱取り(練習試合みたいなもの)、というのがあって、
おじさんと、柔道初日に、乱取りした時、(私、当時、183センチ、97キロ、 おじさん、160センチ、80キロぐらい)
心の中では、勝つと思っていたら、気がつくと、畳に叩きつけられていた。
全然、動きが見えなかった。
今思うと、浮腰だったと思う。
流石、柔道6段、強いんだな、これからは、口の利き方に気を付けようと思った。
(といいながら、へらず口を叩いていた気がするが、あくまでも、本気で怒らせない範囲で。)
練習の後のご飯で、おじさん達の武勇伝を聞いて、柔道の人は、凄いんだなと思ったりしていた。
帰りの電車で、あまりに疲れて、座りこんでいた時、ぐわっと、ランナーズハイのような状態になったのが、一回あった。
最近、ふと、思った事としては、本当は、みんな、いろんな繋がり(ご縁)があるんだ、
だけど、みんな私の興味のある事で、物事を見たり、人と関わったりするので、(特に、一番興味のある事から。)
二番手、三番手の興味は、弱かったり、嫌いな事は、関わらなかったりする。
たぶん、今、日常生活で関わる人は、本気で、向き合えば、いろんな繋がりを発見出来る気がする。
それを、上辺だけの表面的な付き合いを、していれば、表面しか分からないのに、それで、その人を判断してしまったりするのだろうと思う。
真剣に生きれば、物事が、よく分かるし、漠然と生きれば、葛藤の多い人生となったりする。
どう生きようが、その人の人生だから、いいと思うが、私は、やりきったと思って終わりたいと思う。
理想は、前のめりで、倒れこむような感じがいいなと思う。
今年は、私の中で、大きな目標を2つ達成したいと思う!
土曜日に、患者さんの知り合いのお好み焼きじゅじゅさん(浦安)に行った。
お好み焼きは、何年かぶりだったので、非常に楽しみだった。(パクっと食べちゃったので、写真は、ありません。)
患者さんは、このお店の内装にも、関わっていたので、オープンしたら、行こうと思っていた。
一人で行くのは、楽しくないので、先輩と行こうと思って約束していた。
行く時に、先輩と話をしたら、先輩は、既に、お店に先週行っていたらしい。
お店に着くと、丁度、一席だけ空いていたので、そこに、座れた。
患者さんも、来ていて、ママさんに、先生たくさん食べるよと言って、赤い顔の患者さんと、握手した。
お肉は、なかなか美味しかった。(パクッと、一瞬で。)
お好みやきも美味しかった。(パクッと、一瞬で。)
煮込みも美味しかった。(パクッと、一瞬で。アチィ!)
牛タンも美味しかった。(凄い厚みがあったが、パクッと、一瞬で。)
後は、忘れた。
先輩とは、一番最初の修行先の整骨院で、出会った。
練馬で、分院長をしている時、困ると、先輩に相談し、そうすると、先輩は、わざわざ、千葉県の市川市から、飛んできてくれた。
開業の時も、困っていると、先輩が助けてくれた。
そんな感じで、困っていると、私は、先輩に助けを求めていた。
神頼み、ならぬ、先輩頼みである。
だから、先輩には、非常に、恩を感じている。
いつも、ありがとうございます!
先輩!これからも、可愛い後輩として、(えっ?)いろいろ助けて頂く事があると思いますが、
日々成長して参りますので、何卒、よろしくお願い致します!
先輩のお役に立てる、立派な大人になります。
これからも、よろしくお願い致します!
今年、分かった事の一つに、努力とは何か?
今まで、散々、努力は、大事という話を聞いてきたし、実践してきた。
苦労して、手に入れたものは、価値がある。
という言葉がある。
確かに、簡単に教えてもらった事は、苦労していないので、直ぐ、忘れる事が多い。
その事を、苦労して、手に入れていないので、その事に対する思い入れが弱い。
私も、ずーっと、昔は、本気が出し切れなかったから、うまくいかなかったという言い訳をしていた時期があったと思う。
本気を出したら、うまくいかなかっただけ、で、本気を出したら、いけたけどと。
これは、今思うと、本気を出しても、うまくいかなかったら、私は、本気を出しても、ダメな人間と思われる事が、怖かったからだと思う。
今は、100%の力で、思いっきりいく、だから,後悔がない。
今持っている考えは、もし、少しでも,手も抜いてしまったら、絶対後悔すると思うので、今持てる力全てを使って、全力でいく!
努力とは、心の葛藤のある状態で頑張る事。
でも、私も今までは、努力をして、知識、経験を重ねる事で、人として成長していくと思っていました。
ある物事を、仕事でもいいのですが、心を込めてやっていると、没頭状態になってきます。
そうやって、最初は、辛かった状態が、そうでなくなり、いい気分までなると、本人の中では、楽しくなっています。
これが、普通になってくると、周りの人からは、大変ですねと言われますが、本人にとっては、まったくストレスもありませんし、
非常に充実した時間の過ごし方になってきます。
同じ仕事を、大変だなと思ってやるのが、努力。
同じ仕事を、楽しんでやってもいいんです。
努力をしている人は、その人の中にある、いろんなこうじゃなけいけないという考えを、持っています。
だから、苦しいんです。
それが、取れていくと、どんどん心が解放されます。
これを、成長と読んでいると思います。
別に、葛藤がない人は、楽しく最初から、やっています。
だから、努力しても、価値がある。
楽しくやっても、価値があるのだと思います。
私が、もう一つ、気づいたのは、世の中には、素晴らしい先生、師匠がいると思います。
そうすると、私自身がそうでしたが、尊敬出来る素晴らしい先生、師匠を、見ていると、私も、先生、師匠のように、なりたいと思ってしまいます。
すると、先生や、師匠と比べて、私など、まだまだ、と思って、先生、師匠と知らないうちに、努力比べをしていました。
私自身、一生懸命頑張るタイプですが、先生、師匠の頑張りと比べて、まだまだだなと思ってしまいました。
この考えを持つと、世界で一人の人以外は、みんなまだまだになってしまいます。
だから、努力型のタイプの人は、本人の中で、努力と思う事をして、それが、辛くなくなれば、努力という所は、マスターしたでいいんじゃないでしょうか。
努力は、キツイと思う人には、意味があると思います。
人の価値は、本来は、その人の存在だけで、価値がある。
勉強出来る、スポーツ出来る、何かが出来るという事で、その人の価値が、上がったり、下がったりはしない。
その人の能力、経済力(お金)、肩書き、とその人の価値には、関係がない。
みんな価値がある。
この考えを持って、いろんな考えの、いろんな能力の、いろんな状況の人が、みんな幸せになるには、を考えれば、いいと思う。
保江先生の「唯心論武道の誕生」という本を読んだ。
この本を読んで思った事は、我をなくすという事だ。
男性だと強さに憧れる人は、多いと思う。
どっちが、が強いか?誰が、強いか?一番強いのは、誰か?とか。
沖縄空手の銘苅先生が、寸止めの意味は、当てたら、死ぬからと教えてくれた。
もう少しいくと、戦わずにどちらが強いかが分かると教えてくれた。
更に、いくと、赤ちゃんのように、誰も、戦おうと思わない、敵のいない状態。正に、無敵。と教えてくれた。
みんな、我があると、つい、力試しをしたくなるかもしれない。
知らないと、そんな事、嘘でしょうと思ってしまうかもしれない。
最後の方に、炭粉先生の合気私考というのが、書いてあった。
その中に、「自我による思考さえ納めれば、人の魂とそれにより導かれる心は《善》なり」とあった。
我がない状態だと、相手の我とぶつからないので、感覚としては、空間が私なので、私が動けば、相手が動くかもしれない。
最近、仕事で、患者さんと接する場合において、我のない状態で接する事が出来るようになってきた。
ただ、もし、相手がパンチをうってきて、我のない状態でいれるかは、自身がない。(やりやがったな。そんな事しちゃあ、ダメダメ!)
たぶん、そういう状況は、その空間をお互いが、認識してつくりあげてしまうのだと思う。
攻撃した、攻撃されたという共通認識を持った場をつくりあげてしまうのだと思う。
だから、Aさんが、攻撃するという意識で、Bさんが我のない状態で、空間を支配していたとしたら、
AさんとBさんは、ぶつからず、(意識が違うので。)Bさんが動くとAさんは、その影響を受ける。(Bさんが、空間を支配しているから。)
それを、見た他の人は、Bさん凄いと思ってしまうのかもしれない。
今、私の中で分かるのは、没頭して、我のない状態だと、信頼関係が出来るという事ぐらいだ。
塩田先生の殺しにくる人と友達になれるという境地と、植芝先生と宇宙と一体という境地は、まだ、体感できていない。
私は、私の出来る範囲で、こつこつやっていこうと思う。
現代の日本という国ののんびりした時代に、生まれてよかったと思う。
もし、戦国時代とかに生まれたら、本当に常に死を意識しながら、呼吸を考え、気配を感じ、思考、無意識までも考えなければいけなかったかもしれない。
ただ、そんな時でも、ただただ、相手の為に、我を捨て、一生懸命やっていると、幸せだったかもしれない。
今ひとつ、言えるのは、今に心を込め、一生懸命やって、没頭すると、そこには、幸せしかないという事だ。(実証済み。)
クローズという漫画を、やっと、整骨院に持ってくる事ができた。
15巻、16巻が家で行方不明になり、受付のみなっしーに持ってくると言ってから、2~3年年の月日が経った気がする。
昔、おじさんの部屋で、この漫画を見つけ、熱くなった記憶がある。
男性ならば、強さに憧れるというというのが、あるだろう。
この漫画は、いろいろその人なりの悩みがあった時、主人公に出会うと、主人公の笑っちやうぐらさの強さが、ガッンと、脳天に響いて、
人によって、真正面から、ぶつかったり、悩んだり、画策したり、していたのが、どうでもよくなり、すかっとして、気分がよくなる所が魅力である。
男性の患者さんは、結構ファンの人が多い。
みんなが今いる場所で、本気のコミュニーケーションをすると、今まで、見えていなかった世界が、お互い分かるようになり、