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院長 | 松岡 良一 |
Blog記事一覧 > 考える事。|千葉県市川市行徳駅前 松岡整骨院 - Part 43の記事一覧
大和田菜穂さんの「すでに愛の中にある」という本を読んだ。
なかなか深い!
自己意識(私)というのは、脳が作り出した幻想です。
と書かれている。
一般的に私がいて、相手がいて、世界があってという感じで暮らしていると思う。
私という時、この肉体を持っているのが、私と認識している人が多いと思う。
以前から、良く浮かんだ考えは、もし、みんながゼロの状態で生まれて、これは、こういう事ですというデーターを
入力され、ある出来事があり、それに、反応したり、本人が学習したりしたりして、人生を送ったとする。
例えば、この時、二人の人が肉体も、入るデーターも、同じで、全く同じ条件で出来事が起きたとすると、同じ考えになると思う。
本人的には、自分で考えて行動していると思っているのだが。
みんな私という肉体をもったこの身体で、世界を見ている人が多いと思う。
そうすると、私と世界とか、私とあなたとか、私と私以外というものを創ってしまう。
そんな感じで暮らしている人が多いと思う。
良く、人生は、決められているとか、決められていないとかという話がある。
人生が決められているならば、頑張ってもしょうがないと思う人もいる。
人生が決められていなければ、頑張れば、より良くなるので、頑張りたいと思う人もいる。
大和田さんは、{すべてひとつのエネルギーが形を変えた現れたものです。目に見えるもの、見えないもの、感覚や音、思考、イメージその他
この世にあるものすべては同じ一つのエネルギー(私はライフと呼んでいます)の表現であり、本当は、分離というのは存在しません。
実際は、ただ、「全体」があるだけで、独立した個人というものも存在しません。そして、時間というものも存在せず、あるのは無時間の空間のみです。
また、何かをコントロールしている存在というのもなく、一つひとつの現象はただ起きているだけです。
このノン・デュアリティ、非二元という視点は、実際のところ頭で「理解する」ものではないのでなかなか伝わりにくいのですが、
人はどこかで、「これ」を知っているのです。}
と話されています。
私という部分が、限られたデーターしかないのに、全体を分かろうとしている所に無理がある。
映画を見ていて、私が映画の主人公がだったら、結末が決まっている。
これが、あなたの人生だったら、どうだろうか?
面白くないと思う人もいるし、ハッピーエンドなら、いいやという人もいるかもしれない。
この時、映画を見ているという意識なら葛藤は、ない気がする。
スマップのナンバー1でなくても、オンリー1でいいという歌がある。
全体の中のそれぞれは、みんな表現の違いがあるだけで、同じものという考えが持てると葛藤はない。
ただ、私という個人の人生の意味というのを、考えると、私と私以外を生み出してしまう。
ポイントは、私という部分で全体を見ようとしている所。
私を追求しすぎて、私と私以外にしない事。
視点を私から、全体という意識に変える。
これが、難しいと思う。
感じとしては、現象を見ている感じ。
大和田さんは、現象と私を結びつける所に、葛藤があると話されています。
本人の分かる範囲で、いろいろなものを取り入れていくのが、いいと思います。
お笑いの又吉さんの火花という本を読んだ。
又吉さんの風貌は、文豪という感じがするので、どんな文章を書くのか、興味があった。
本の内容は、お笑いに生きる主人公と、その先輩の事が書かれている。
主人公は、とにかくいろいろ考えているが、なかなかふっきれず、行動に移せていない感じで、
その逆のタイプの先輩は、不器用な感じで、相手かまわず、自分の思った事を徹底して、行動に移しているがうまくいってない、それが、二人の笑いに関係している。
昔、テレビに出ている落語家の師匠という方が来られた事があった。
これは、ひとつ笑わせてやろうと思った。
結局は、反応なし、という感じだった。
今思えば、人間的に磨かれていない若造の戯言に、話のプロが付き合う事は、ないだろう。
この時、飾らない等身大の私で、接していたら、何かひと事貰えたかもしれない。
芸人の人って、、凄いなと思う。
人によって、笑いのツボが違うし、その時によって、心理状態が違うし、そんな場を把握しなければいけないと思う。
俺の笑いで、笑わしてやろうと、思って、その場のお客さんの笑いのツボが合っていれば、笑うと思う。(共感出来る。)
俺の笑いで、笑わしてやろうと、思って、その場のお客さんの笑いのツボが合っていなければ、場が白けると思う。(共感出来ない。)
笑う時は、力が抜けている。
つまり、緊張していない。
という事は、北風と太陽の話のように、何とか笑わしてやろうと、思って、どんどん頑張って、力が入ると、笑いのツボが合っていない場合は、
お客さんも、ますます力が入って、笑えない状況になってしまう。
ここで、笑わそうと思って、お客さんが笑ってくれれば、いい場が出来ていると思う。
この先輩は、自分のやり方を通そうとして、お客さんを見ていない。
自分の笑いに対する美学がある為に、笑いをとる為に、お客さんに媚をうるのは、違うと思っている。
ここに、心の葛藤がある。
他の業種の職人さんであれば、うちの気に入らなければ、他に行ってくれ!
が、通用するかもしれない。(うちのこだわりが分かる人だけが、お客さんでいい。)
それで、本人が納得なら、そういう生き方もあると思う。
我の強い人と接すると、多くの人は、緊張すると思う。
芸人さんの場合は、お客さんを緊張させたら、笑いは、生まれ無いと思う。(緊張からの、弛緩は有りだと思う。)
私の鉄板ネタは、患者さんの耳元で、「ここだけの話なんですが、実は、この整骨院をつくったのは、◎◎さんの為に作ったんです。
本当は、他の人は来なくてもいいです。だけど、それでは、食べていけないので、しかたなくやっているんです。」と小声で話します。
すると、患者さんは、先生、冗談言ってといいますが、喜んでくれます。(15年以上前から、言ってると思います。)
これを、分析すると、患者さんの為に一生懸命やって、満足してもらった状態で、私自身が、患者さんの施術をする時は、その患者さんの事しか
考えていなくて、言葉が本心から出ているので、それが、伝わっているのだと思います。
肩こりが、ひどくなると、痛くなったり、更にひどくなると、鈍麻っていって、感覚が鈍くなります。(他に、頭痛、吐き気、痺れ、寝違い等もあります。)
頑張っている人程、身体も、心も固まっていて、また、それが、普通になって気づいていません。
昔は、こういう患者さんは、強い力で、ほぐしていました。
患者さん自身も、感覚が鈍くなってきているので、強い刺激を求め、更に、強い刺激となってしまいました。
そんな事をしていると、どんどん強い刺激で、どんどん筋肉を硬くしてしまいました。
あっ、これは、ダメだな、筋繊維を痛めているなと思い、そのやり方は、しないようになりました。
そんな身体と心の固まっている人に対する、笑いは、外側からの刺激というより、内側から、自分自身で、握っている拳を、開くような内側から
の刺激で心に届く、笑いなのかなと思います。(あくまでイメージですが。)
手ごわそうな人は、意欲がなく、いろんなものに無関心のタイプかなと思います。
このタイプの人が笑ってくれると、誰でも、大丈夫って感じがします。
お笑いの人は、本来は、その場にいる人を全て把握して、その人の背景まで分かったうえで、ネタをつくれば、たぶん受けると思います。
実際は、お客さんを見ていないで、勝ってに創ったネタで、お客さんを笑わせようとして、そこに、ギャップがある事です。
そのギャップをどう埋めたらいいのでしょうか?
徹底して、こだわり抜いたと思っているネタが、お客さんに受け入れられるには、何が必要でしょうか?
それが、場を掴むという事だと思います。
そこにいるみんなが肩の力を抜いて話が聞ける場!
これを、創れるかが、ポイントだと思います。
私自身は、教えてあげようと思って話すと、うまく場が創れない時があります。
ただ、ただ、気持ちだけで、話した方が、場が出来ている気がします。
場がうまく出来ると、お客さんは、安心して、緊張から開放されます。
お客さんの反応を見ながら、言葉が出てくるといいかもしれません。
お客さんによって、言葉がくぁっても、面白いと思います。
これが、お客さんの事を考えて出来た、お客さんの心を解放する笑いかなと思います。
もうひとつは、ある人は、身体を鍛え、毎日、腕立て、腹筋、背筋、スクワットをしています。
この人の発する、「ぽふっ。」ある人は,小さい頃から、ずっと、苦労して、努力に努力を重ねてきました。この人の発する、「ぽふっ」
ある人は、何となく生きています。この人の発する、「ぽふっ」 ある人は、ずっと、嘘ばっかりついてきました。この人の発する、「ぽふっ」
ある人は、みんなに好かれています。この人の発する、「ぽふっ」 ある人は、正体不明で、人がどうかも定かではありません。
この人?の発する「ぽふっ」 同じ、「ぽふっ」という言葉なのですが、それぞれ、人生が違うので、その人が、ただ、ひと言、「ぽふっ」
というだけで、笑ってしまうのも、あると思います。
世の中には、いろんな笑いがあると思います。
本人の中に、明確な笑いに対する信念があると、それは、伝わり安いと思います。
世の中の人は、笑わないけれど、ただ、この人だけは、笑ってくれる。
それも、いいと思います。
三浦雄一郎さんの「歩けば歩くほど人は若返る」という本を読んだ。
昔、読んだ三浦さんの本には、重りが29キロ背負って、と書かれていた。
今回の本には、体重78キロの三浦さんが、46キロを背負って歩いていると書かれていた。
私も、高校時代、郵便配達のバイトのお金で、パワーアンクルとリストという総重量10キロ購入し、つけたりしていた。
これを、外したら、漫画のように、とんでもない力が出るかなと思っていたが、出なかった。
以前、患者さんのOLさんが、会社に三浦さんが、講演に来られて、話を聞いていると、何か、身体が、燃えるような感じになったと話してくれた。
今回本の中で、重りをつけて、歩いたら、三浦さんの半月板が、再生したり、マネした人が膝の痛みが無くなったりしたと書いてあった。
息子の豪太さんが、本の中で、「アンクルウエイトをつけてウォーキングしたことで、お父さんの半月板が正常値まで再生していたというのは驚きだ。
常識的にはありえないもの。これまでの常識で考えると、関節内には血管が通っていないので、一度傷ついたらほとんど治らない。とくに半月板なんか
すり減ったものは元に戻らないし、一度ささくれ立ったら除去した方がいいとまでいわれているくらいなんだ。でも、半月板の再生を事実として受け止めて考える
と、まず関節液の主成分であるグルコサミンは、関節内の保護をすると同時に、回復にも大きな効果を発揮することが知られている。
この関節液というのは、上からかかる力で一度間接がグッと押されたあと、今度は下に引っ張られる物理的作用で循環しているんだ。
それが、リュックの重さと、アンクルウエイトとの重さのせいで、膝関節内で山道よりもさらに強い伸長運動が繰り返されて、
毎日毎日ウォーキングするたびに関節内でよりダイナミックな関節液の循環が起こった。
それを長年続けたことがグルコサミンの回復効果を促進させて、半月板再生につながったのではないかと推測しているよ。」と書いてある。
65歳の時、暴飲暴食がたたって、メタボになってしまった三浦さんは、札幌の自宅近くの藻岩山(531m)という小学生が遠足でいく山に登ったが、
気持ち悪くなって、登頂できなかった。
そこから、70歳で、エベレスト登頂を目指す所が凄いと思った。
三浦さんの場合は、昔、いろんな冒険を達成したこの私が、このままでいいのか?と思い、
それならば、一度は、諦めたエベレスト登頂と覚悟を決めた。
人は、いつでも、いつからでも、本気になれば、そこから、変わることが出来る。
何の為に生きるか?を持っていると、人生は、退屈しない。
最近、思うことは、過保護にすると、身体も心も弱ってくる。
余裕がなくなる。
余裕のない心で見る世界は、楽しくない。
そういう時は、どうするか?
身体を鍛えるか!心を鍛えるか!余裕のある人と出会うか!
何でも、いいと思う。
とりあえず、やってみればいいと思う。
本の最後に、{三浦さんが、父は、「私の人生に冒険はない。自分のはしんどいけれど一歩一歩、歩いていけば達成できるもので、
雄一郎のそれとはまったく次元が違う」といった。たしかに僕は冒険家だ。エベレスト滑降で転んだり、南極で雪崩に巻き込まれたり、
クレバスに落ちたり、いつ死んでもおかしくない危機に遭遇したことは幾度もある。
でも、命が惜しければエベレストなんかいかなければいい。しかし、死を前提とした覚悟を決めると、
反対にどうすれば生きて帰ってこられるかを必死に追求する。
その僕の答えが「歩く」ことだった。
僕は冒険の道を選んだだけで、父の努力と、僕の一歩は根本的には変わらない。
冒険も目標も、日々歩き続けることで必ず達成できるのだ。
さあ、歩くことから始めよう。(死を意識することで、毎日が活き活きしてくる。努力に凄い努力、ちっぽけな努力はない。歩くとは、人生。)
日曜日に、久しぶり(二年ぶり)腱引きの師匠の小口先生にお会いした。
平先生と小口先生のコラボセミナーが大塚のゴールドジムで、行われた。
気持ちとしては、ずいぶんと顔を出していなかったので、小口先生のお顔が見られればいいなと思った。
平先生は、チャンピオンという漫画で、グラップラー刃牙という漫画のモデルとなった人なので、いつか、お会いしたいと思っていた。
噂では、なかなかの人格者とお聞きしていたので、楽しみにしていた。
私は、座学と思っていたので、ジャージを持っていかなかった。
平先生のお話は、人間は、本来、骨の数だけ、動かせる事が出来る。
だから、原始人が本来の人間の力が使えているだと思うという事だった。
それを、現代人は、整った場所で、暮らしているので、どんどん、固まって、いろんな症状を出しているというとの事だった。
平先生が、床に寝て、頭の位置は、同じで、背骨を動かす事を見せてくれた。
感じとしては、身体が伸びる感じで、身長が高くなっていた。(背骨を真直ぐにしているのかなと思った。)
平先生が肩をどんどん、引っ張って,捻ってというやり方をして、それを、みんなが二人一組で、やって、効果を体感する。
それに対して、小口先生が解説入れたり、腱引きでは、こうやり方もありますという感じでというのを、見せたりしていた。
逆に腰では、小口先生がやって、平先生が、うちではこうですよというのを、みなさんが出来る簡単なやり方を教えてくれていた。
今回、思ったのは、小口先生は、身体を、先生の指先で捉えた感覚をもとに、先生納得の理論を構築し、メカニズムの視点から、話をされ、平先生は、格闘技
をずっとされてきているので、実戦の中でつかんだ身体の事を話されているなと思った。
セミナーの最初に平先生が、みなさんは、健康をどのように思っていますか?
と質問を投げかけられ、この話をするだけで終わちゃうんでしませんが、という話をしました。
セミナーを終えて思ったのは、身体の中から、満ち溢れるパワーが出ていたら、悩みなんか気にならないんだろうなと思った。
悩みの捉え方を、平先生は、偏った身体の使い方、本来の身体を使えていない状態をどんどん使える状態に解放していく事で、心も解放していこうと
思っているのだろうなと思った。
身体を通して、私を知るという考え素晴らしいなと思った。
腱引きの師匠の小口先生の分析が、より、繊細になっているので、流石だなと思った。
本部には、トレイルランの鏑木さん達こられているという話だった。
どの道でも、本人の思う道を、信念を持って、ブレずにいく、姿は、かっこいいなと思った。
平先生、小口先生、ありがとうございました。
昨日思ったのは、物事を知る時、今までの経験を元に物事を理解したりする人が多いと思う。
となると、私の中で、こうだと思っている事と違う場合は、なかなか受け入れられない人もいると思う。
昔、東京で、やっていた時、同僚の先生にある治療を行なった。治療効果はあった。
だが、その先生、曰く、先生の中で、論理的に納得出来なければ、それは、認めないという事だった。
その頃の私は、症状が取れれば、やり方は、なんでも、いいんじゃないかと思っていた。
私とあなたがいたとする。
私という世界で、私の理解出来る範囲で、あなたを理解する。
あなたという世界で、あなたの理解出来る範囲で、私を理解する。
このやり方でも、世界が少し広がるだろう。
私という世界で、私の理解出来る範囲で、あなたを理解しようとした。
だが、私は、あなたを理解出来ない。
あなたという世界で、あなたの理解出来る範囲で、私を理解しようとした。
だが、あなたは、私を理解出来ない。
であるならば、世界は、広がらない。
私の居る場が、同じ価値観のもの同志なら、居心地いいし、ストレスも少ないいだろう。
私の居る場が、違う価値観のもの同志なら、戦いになり、後は、力関係で、怒ったり、我慢したりするのだろうと思う。
価値観が同じだと、同じ事をしていても、相手が、この人は、なかなかこだわりがあっていいなと思えたり、
価値観が違うと、頑固だなと思ったりすると思う。
価値観がぶつかる根底にあるのは、お互い、私の気持ちを分かって欲しい、そんな時に、それは、違うと言われたら、
私の人生を否定された気がして、頭にきてしまうという事だと思う。
私の嫌いなあなたがいた時、
戦うのか?拒否するのか?私の思いは、棚上げして、聞くのか?
どう向き合うかは、私次第だと思う。
あなたを知りたい時、一番邪魔するのは、私の我である。
私は、昔、怒っている人は、嫌だなと思い、心の中で、私自身が、怒りに対して、怒っていた。
って、事は、同じじゃん、ただ、力関係によって、表面に出ているか、出ていないだけ。
信頼関係が築けると、価値観の違いは、気になりません。(実証済み)
あなたの嫌いな、頭にくる物事に、真剣に向き合うと、新しい世界が見えてきます。
ポジティブという価値観とネガティブという価値観が、一緒になって、ひとつです。
ただ、価値観が違うと、見え方が違うだけです。
ポイントは、最初は、私の知らない考え方があるんだと頭の隅に置いているだけでいいと思います。
昔は、世の中の全ての人の価値観が分かればいいなと思っていました。
ただ、それは、価値観同志の繋がりに過ぎません。
それより、信頼関係さえ出来れば、価値観の違いが、新しい世界を知るきっかけになり、楽しめます。
私事で、言いますと、努力、根性で生きてきましたので、昔は、頑張らない人は嫌いでしたし、頭にきていました。
ある時、仕事を、楽しそうにしている先生を見ました。
仕事は、糞真面目に、努力するのが、当然と思ってましたから、楽しそうは、不真面目じゃないかと思っていました。
私がその時、出来る事としたら、全てを把握してから、なら、楽しむのも、ありかなぐらいでした。
その先生を見ていて、そんな生き方もあるのかなと思いました。
一生懸命、頑張って、心を込めて、物事に取り組んでいると、没頭します。
一方、物事を楽しみながら、無我夢中になっている状態、これも、没頭の状態です。
この両方の没頭に、差はありません。
どちらでも、好きなやり方でいいと思います。
感情は、価値観の反応で、喜怒哀楽に、優劣は、ありません。
みんなが、あなたと私という意識をもっているのであれば、同んなじ価値というのを、持った上で、
仕事が出来る、出来ない、スポーツが出来る、出来ない、何かが出来る出来ないで、考える事が出来れば、
ストレスは、少ないと思います。
簡単に言うと、私とあなたの関係を、仲間と思うのか、敵と思うかで、全然違います。
こんな事を、言っておりますが、これも、ひとつの考えなので、あなたの生活が、いい方向に向かうのであれば、活用してみてください。
人生は、全て、本人次第で、どうにでもなりますので、頑張ってもいいし、頑張らなくてもいいし、あなたの思う生き方を追究してみてください。
私自身が、小学生の頃、通知表をもらうと、毎回、父親から、拳骨をもらってた人なので(2ばっかりだったと思う。)、
そんな人でも、思う事は、全て実現してきているので、みんなは、大丈夫だと思います。
春木宮司と矢作先生の対談本【祈り祀る】この国の形という本を読んだ。
この本の中で、浄明正直(じょうみょうせいちょく)、清明心という言葉と、罪、けがれという言葉がいいなと思った。
浄明正直、清明心とは、清く、明るく、正直にという事であるようだ。
みんな、人に対して、私に対して、どれだけ、正直に生きられているだろうか?
正直に生きられる人ほど、ストレスが少ない。
例えば、短気な人Aさんが、つい怒ってしまうというのが、あって、
それに、よって、ある場面では、Aさんの意見が通ったとしよう。
また、別の場面でも、うまく意見が通ったとしよう。
Aさん的には、怒るのは、悪いと思いながら、私の考えは、正しいし、性格だから、しょうがないなと思ってたりしている。
Aさんは、相手の性にして、私の心と、正直に向き合っていない。
それが、段々、人が離れたり、何かうまくいかないというのが、分かると、初めて私の心と向き合ったりする。
相手が、気の弱い人と、気の強い人の場合は、どうだろうか?
気の弱い人の場合、怒るのは、通用する。(でも、恨まれたりしている。)
気の強い人の場合、そして、Aさんより、力が強い場合、腕力、経済力、権力等。
この場合でも、怒れるのであれば、Aさんは、相手に対して、正直に生きていると言えよう。(ただ、叩きのめされて、怒るのは、よくないに気づくかもしれない。)
この時、怒らない場合。
我慢している。(私の心に、正直に生きていない。)
そういうものだと思っている。(Aさんの価値観では、それは、正しいになっている。)
Aさんの価値観で、正しいと思っているものは、Aさんが困った状態にならないと、気づきにくい。
価値観とは、本人的に大事にしていて、正しいと思っている事。
ただ、人によって、違う。
だから、人と正直に関わって(本音で話して)、私の心と正直に向き合う。
そうすると、今まで、こうだと、思っていた事が、違う見方が出来たり、私の考えを肯定し、相手の考えも肯定する考えが出来たりする。(実証済み)
人と真剣に向き合うには、パワーが必要だったり、忍耐が必要だったり、大変かもしれないが、それが出来ると、相手の心が開放され、私の心も開放される。
浄明正直、清明心、清く、明るく、正直にとは、シンプルだが、
その人の心の状態(在り方)で、いろんな様相をしていると思う。
ただ、それが、その人にとって、その時の一番ベストの状態といえる。(本人的に、一番納得出来るんじゃないかと思う。)
千田琢哉さんの「好きなことだけして生きていけ」という本を読んだ。
この本の中で、いいなと思ったのが、成功か!幸せか!
仕事か!家庭か!という二者択一でなく、対立でなく、包括的な、
千田さん、曰く、「幸せな成功者になろう。仕事で成功しながら、愛情溢れる家庭も築こう。好きなことでお金もちになろう」
という考えである。
つい、何かを求めると、何かを犠牲にしなければ、という考えかたがあるが、両方求めてもいいんじゃないですかという考えである。
子供が、無邪気に遊んでいるの、反対が、退屈な大人と書いてある。
そんな大人を、見て、子供は、そんな大人になりたいだろうか?と書いてある。
確かに、今の社会は、苦しんでいる人が多くみえる。
その根本は、我である。
私自身が、昨年、分かったのは、我には、見える我と、見えない我がある。
例えば、私と相手がいて、相手が、一般的に我が儘といわれる人で、
その相手と接した時、相手の我が儘が出たとき、
つい、あの人は、自己中だからなとか、思ってしまうが、
本当の所は、例え、相手が我が儘100%としても、私の中に我が儘が、まったくなければ、
相手の我が儘が出る事は、ない。
出る場合は、私の中に、我が儘が、5%か、10%があったりする。(相手の我を見えるが、私の我は、見えていない。)
ただ、我が儘は、信頼関係出来たら、気にならなくなる。
これは、今までは、価値観で、相手を見ていたのが、
信頼関係が出来ると、相手を私の事のように思えて見れるからである。、
これが出来ると、我が儘は、個性になる。
昔、友達が、私が任されている整骨院にスタッフとして、入ってきた。
価値観は、真逆なのに、友達として、非常に馬があった。
いざ、仕事となると、友達の時のようには、いかなかった。
その時は、何でか、分からなかった。
今は、分かった。
友達の時は、信頼関係出来ているので、何でも有りだし、彼の為ならなんでもやってあげようという気持ちがあった。
仕事の時は、当時、私の中で、仕事は、こういうものだという価値観で、友達を見ていて、(鬼みたいな気がする。表面的には、柔らかったと思うが。)
また、仕事と、プライベートは、分けなければいけないという考えを持っていた。
友達は、松ちゃん、いつもと違うなと思ったかもしれない。
友達には、悪い事しました、そんな私と今も、友達でいてくれて、ありがとうございます。
千田さんが、
幸せのすべての根源は、本人が本音で好きなことをやっているか否かだ。
好きなことに没頭すれば、好きな人と出逢い、好きな人と幸せになれる。
一度これを経験すれば、あなたは大好きなことをして生きる人生の虜になるだろう。
と締めくくりに書かれている。
今日、患者さんと話をした時、地元は、どちらですか?と、お聞きした。
患者さん 「巣鴨です。」
私 「駅前の小さな道場知ってます?」
患者さん 「昔、剣道で、通った事があります。」
私 「私、そこで、柔道、最初に習ったんですよ。」
この頃は、地元の木更津から巣鴨まで、日曜日に、2時間30分以上かけて、通った記憶がある。
思い出としては、乱取り(練習試合みたいなもの)、というのがあって、
おじさんと、柔道初日に、乱取りした時、(私、当時、183センチ、97キロ、 おじさん、160センチ、80キロぐらい)
心の中では、勝つと思っていたら、気がつくと、畳に叩きつけられていた。
全然、動きが見えなかった。
今思うと、浮腰だったと思う。
流石、柔道6段、強いんだな、これからは、口の利き方に気を付けようと思った。
(といいながら、へらず口を叩いていた気がするが、あくまでも、本気で怒らせない範囲で。)
練習の後のご飯で、おじさん達の武勇伝を聞いて、柔道の人は、凄いんだなと思ったりしていた。
帰りの電車で、あまりに疲れて、座りこんでいた時、ぐわっと、ランナーズハイのような状態になったのが、一回あった。
最近、ふと、思った事としては、本当は、みんな、いろんな繋がり(ご縁)があるんだ、
だけど、みんな私の興味のある事で、物事を見たり、人と関わったりするので、(特に、一番興味のある事から。)
二番手、三番手の興味は、弱かったり、嫌いな事は、関わらなかったりする。
たぶん、今、日常生活で関わる人は、本気で、向き合えば、いろんな繋がりを発見出来る気がする。
それを、上辺だけの表面的な付き合いを、していれば、表面しか分からないのに、それで、その人を判断してしまったりするのだろうと思う。
真剣に生きれば、物事が、よく分かるし、漠然と生きれば、葛藤の多い人生となったりする。
どう生きようが、その人の人生だから、いいと思うが、私は、やりきったと思って終わりたいと思う。
理想は、前のめりで、倒れこむような感じがいいなと思う。
今年は、私の中で、大きな目標を2つ達成したいと思う!
昨日、母親が、介護福祉士の試験に合格した。
三回目の挑戦での合格である。
よく、実家に帰ると、試験の勉強をしていた。
ずーっと、ヘルパーさんの仕事をしていて、とらなきゃいけないという話を聞いていた。
勉強も、勉強のやり方が出来ている人は、いいが、あまり勉強をやってきていないと、勉強のやり方が、分からない。
昔、山登りのリーダーと、勉強の話をした時、リーダーは、本一冊何百ページあった時、それを、日数で、割って、
一日分の、その決めたページ数は、絶対やるという話をしていた。
それを、聞いて、頭の良い人は、しっかり、やり方が出来ていて、それを、貫くんだなと思った。(凄いな。)
近所のお世話になっている整形外科の院長先生は、特に、才能は、ないし、(謙遜していると思うが。)
勉強は、努力すれば、した分だけ、成果が出るから、勉強したと話されていた。
私、何か、小学学校の時、通知表を家に持って帰ってくると、いつも、父親から、拳骨をもらっていたので、
ますます劣等生として、しっかり成長していった。(後に、これが、コンプレックスとなり、反動で凄まじく、自発的に勉強するようになった。)
父親は、実家が、農家なので、家に帰ると、家の仕事を手伝わなきゃいけないので、小さい頃から、勉強する暇など、なかったらしい。
それでも、勉強出来たのは、学校の授業を聞いている時に、覚えてしまうという事だった。
その父親から、みると、平々凡々と、暮らしている長男の姿は、九州男児の父親にとって、長男として期待しているだけ、
歯がゆかったのかもしれない。
母親も、昔の私のように、勉強のやり方が、分からないタイプであるから、いろいろ悪戦苦闘していた。
父親が、覚えて、教えてあげれば、勉強もうまくいくし、夫婦円満で、いいんじゃないかと思っていた。
結局、母親は、自力で頑張り、合格した。
多分、父親は、母親が、自分の力で、苦労して、努力して、合格を掴みとる事で、この合格の価値を感じさせ、
自信を持たせたかったのだと思った。(見守る、親心。)
昔、山登りのリーダーと話をした、苦労して、手に入れたものしか、大事にしないというのがある。
例えば、師匠から、凄い技を、教わったとして、それを,編み出すには、師匠は、苦労に苦労を重ね、やっと、出来上がったのを、
それを、思わず、簡単に受け取って、雑に扱ってしまうと、その真価は、発揮しきれないと思う。
だから、自分のものとして、受け取る為には、そこに込められた思いまでも、感じながら、受け取らなければならないと思う。
今回の合格は、母親にとって、大きな自信になると思う。
母ちゃん!おめでとう!
お疲れ様です!
よく、頑張ったと思います。