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続・謎の空手・氣空術という本を読んだ。
最初は、あっ、こういうやり方をしているんだという読み方をしていたが、読んでいるうちに、
ここに登場する人達のいろんな思いに、共感する読み方になった。
武道、武術に関わる生き方がある。
その関わり方は、その関わる人によって、いろいろあると思う。
そして、それを通して、自分を知るという事だと思う。
最初は、私がいて、対象物があるという捉え方だと思う。
そして、いつか、これが、私の世界だと分かる気がする。
本の中で、桃塚さんという方が登場する。
畑村会長と一緒に苦楽を共にしてきた心の友だ。
それだけに、畑村会長は、桃塚さんの事をみんなに知ってもらいたい。
炭粉先生は、桃塚学という、悲しいほどに目立たない男がいる。
と書かれている。
「氣空術の稽古を初めて行う人は皆さん固い。固い。けれどもそんな人を桃さんと組ませて稽古させると、
途端に柔らかくなってきて氣空術のうごきができやすくなるねん。」
と畑村会長。
本の中の印象だと、畑村会長と桃塚さんは、陰陽の陽と陰の感じがする。
陰陽は、見え方の違いなので、情熱が表に出ている畑村会長、情熱を内に秘めてる桃塚さん。
そして、いつも、二人で、稽古している時の会話は、
「もうこれ以上無いのだろうか?さらにすごい先生とはもう巡り会えないのだろうか?」でした。
と書かれていて。
そして、平成二十一年九月、私は岡山市野山武道館で保江邦夫先生と邂逅(かいこう)します。
戻って直ぐに桃塚さんに電話を掛けたのは、言うまでもありません。
「あったで桃さん!やっと見つけた!ホンマもんを・・・・・・」
と畑村会長は、書かれています。
興味のあるものには、アンテナが立ちます。
それを、追究していると、アンテナの感度が上がります。
また、自分自身も、信号を発しています。
ずーっと、追究してきた結果、アンテナの感度が上がり、保江先生の発している信号をキャッチしたと思います。
物事は、そこに、興味がないと、あっても、見えません。
本当に、心から、追い求めるものがあるのは、幸せだなと思います。
それが、生きがいになり、その行動が、別の人の生きがいを生むと思います。
まず、今いる場所で、目の前の事に本気で取り組むと、何か見えてくると思います。
それを、続けていくと、どんどん、楽になります。(実践済)
まず、最初のうちは、努力や、根性で、どんどん積み上げて、やってみて、そして、積み上げるやり方で、対応出来なくなったら、どんどん外すやり方でやってみると、いいと思います。(実践中)
氣空術のDVDを観た。
とりあえず、やってみた。
相手の胸に、拳を当て、(その時、膝を少し曲げて、下方向の力が働いている感じで拳を当てる)そして、拳を真っ直ぐ水平に動かす。この時、相手は、後ろに行かないように、踏ん張っている。けれど、後ろに行ってしまう。
(相手は、抵抗しようとしているが、抵抗出来ない。)
相手の気持ちとしては、ただ、前から押されるので、それに、逆らって踏ん張る感じ。
下方向の力は、分からない。
ここで、分かる事としては、脳は、一つの事に、対応してしまうと、他の事に対応出来ないという事。
ここでいう脳は、意識をして、脳を使うと、そうなるという事だと思う。(顕在意識)
例えば、車を運転しているのは、(周りを見て、ハンドルを握って、ウインカーを出したり、アクセルやギアを変えたりしているのは、)無意識。(と、ペーパードライバーの私が言っている。笑い)
目で見えるものは、力で対抗して、抵抗する事が出来る。
分からないものは、対抗しようが、ない。
であれば、これは、想像なので、出来るかどうか分からないが、相手の拳が私の胸に接触した時点で、相手の拳からこういう方向の力とか、鏡のように、相手の刺激をそのまま同じ刺激で、打ち消すというのを、無意識化に入れて置くことが出来れば、面白いなと思う。
顕在意識と潜在意識の研究。
潜在意識を研究していくと、身体の反応、心の反応がどう顕在意識に現れていくかが分かると思う。
あなたの身体の反応の元になるもの、あなたの症状の根本の原因、あなたの心の反応の元になるもの。
脳が、あなたの人生を創っていると思う。
脳があなたを、あなたの人生に所属させていると思う。
いろいろ考えちゃいました。
氣空術、是非、体験してみてください。
面白いと思います。
「謎の空手・氣空術」という本を読んだ。
炭粉先生が、推薦の言葉の中で、
「威力ある技はその威力故に、耐えられる。
威力なき技はそれ故に、耐えるべき対象が、ない。」
これこそが、氣空術の本質!
「氣空の拳」とは誠にもって、よくいったものだ・・・・・・即ち
「汝の敵を愛せよ」を唯一の理合とする冠光寺眞法と、ピッタリ符号するのです!
と書かれております。
意識で、感知出来れば、今まで積み重ねたもので、対応出来ると思いますが、
意識で、感知出来なければ、努力や、根性で、鍛えた身体をもってしても、対応出来ないと思います。
「動きや力の配分をどんなに完璧に踏襲しても、全くの徒労!」と書かれております。
愛魂というのが、あるのか、無いのかで、全然違うという意味だと思います。
私が、昔、山登りの一番最初の山で、三つ峠という山を登りました。
そこのコースは、短い時間のコース、長時間コース、岩登りのコース、もうひとつコースがあった気がします。
同じ、三つ峠という山登りというした事では、同じですが、中身が全然違います。(この時、凍っていて、滑って、尾骨骨折しました。(´・ω・`))
三つ峠という山登りをしたという話を聞いただけでは、その違いは分からないと思います。
であれば、一見、外側から見ると、同じ動きでも、ひとつ、ひとつ、精査する事で、この人には、効くけど、この人には、効かないというのが、なくなってくると思います。
意外とあるのが、別の技法で、その事が出来たとすると、つい、そういうものかなと思ってしまいますが、果たして、それが、師匠に通用するのかは、難しい気がします。
畑村会長は、「保江先生の柔術は、冠光寺眞法の愛魂の理合をそのまま柔術に通したもので、そのため冠光寺流柔術と呼ばれますが、先生によれば眞法の愛魂は柔術のみならずあらゆる人間行為に通すことができるとのことでした。ということは、我が空手にも通すことができるはずです。これが、氣空術のそもそもの発想でした。」
と書かれております。
私のイメージでは、無償の愛という完全球体を、みんなは、その一部分を、平面に、捉えて、愛という解釈をしているので、それぞれの愛が違ったりする。でも、それも、無償の愛の一部。
保江先生も、「愛には高貴な愛や低俗な愛などと区別は存在せず、どのような愛も愛であることに変わりはないのです。」
と書かれております。
保江先生が、畑村会長の事を、「かねてより密かに目標としていた己の姿ー限りなく透明に近い愛ーが、そう、既にそこにあったのだ。この僕に一つの大発見があった。活人術をするに、何も襲いかかってくる相手を愛する必要すらないということを。自分自身が愛になり、しかも限りなく透明に近い愛となっていさえすれば、ただ自然に動けばそれが愛魂(合気)になるのだから。」
と書かれております。
愛そのものになれば、全ての行動が、愛のある行動となります。かといって、いきなり、それを、目指すのは、大変かもしれないので、まずは、好きな分野で、それを、マスターしている師匠と関わるのが、いいと思います。
畑村会長の空手の話の中で、畑村会長が、強い初代の前田会長に、必殺・飛び後ろ回し蹴りを喰わそうと、思ったら、会長に完璧に封じられた話や、前田会長の弟さんと、稽古して、二人で、銭湯に行って、空手着を脱いだら、お互いの胸に、拳の後があって、嬉しかったと書かれております。本当に、空手が好きというのが、伝わってきます。
拘りは、頑張る原動力になると思います。
でも、拘りが、物事を、見えにくくもします。
そんな時、その人の好きな分野で、畑村会長や、炭粉先生や、保江先生のように、愛というエネルギーが分かった人が、世の中にどんどん増えてくれば、そこに参加する事で、より、充実した人生を送りやすいかなと思います。
氣空の拳を読んで、朝起きて、思った事。
小磯さんも、高荻さんも、闘いの世界に生きてこられて、いろいろ研究をされてこられたと思う。
小磯さんが畑村会長から、「当たってもええねん『受けよう』という気持ちを捨てて『迎え入れる』でやる。そうするとと攻撃した相手の反応も狂うし、技も決まる」というお言葉を頂いたと書かれている。
『受けよう』という気持ちを捨てて書かれている。闘いの世界であれば、攻撃、防御があると思う。その防御に、受ける(ブロックする。)、避ける(かわす。)のが、当たり前だと思う。
『受けよう』を捨てるとは、相手と私の力がぶっかるのをしないという事で、だから、『迎いいれる』となるのかなと思った。
日常生活で、相手と何か、意見がぶっかると、カチンとくる人がいると思う。(凄い頭にきた!”っていう人もいるし、少しイラっとした人もいると思う。)
防御を、避ける(かわす)を、日常生活で、使われると、こっちは、真剣に話しているのに、話をかわして、聞き流しやがって!(怒り!)となる。
どうしても、みんな生き方が違うのだけど、その生きてきた中で、掴んだもので、物事を判断するので、意見(価値観)が違うようになる。
畑村会長は、お会いした事は、無いのですが、小磯さんの文章を読んでいると、小磯さんのいろいろ追究されて出てきた拘りの質問に、ひとつ、ひとつ、丁寧に答えて下さっている感じがします。そうすると、小磯さんの方も、ひとつ、ひとつ、納得する事ができて、腑に落とされていかれるのかなと思います。
高荻さんが、合気を体験する為に、いろんなセミナーや、道場を巡られました。
高荻さんには、合気がかかりませんでした。合気がかからないと、態度を豹変する先生方がいました。
高荻さんは、憤慨しました。本物はいないのかなと思われたのかなと思います。
そんな時、男の中の男の炭粉先生が現れます。(注ー私は、炭粉先生ファンなので、偏った表現になっております。ご了承ください。)
高荻さんの、突きや蹴りは、凄まじいです。(瓦十枚を粉砕する拳、脛骨と腓骨を粉砕する蹴り)
炭粉先生は、生身ひとつで、痛み稽古という、相手から放たれる全力の攻撃に対し、一切の抵抗をせず、全て己の全身で受け止めるということをされた。
この時、高荻さんの様々な思い、持てる力の全てが出せた。
畑村会長、炭粉先生のお二人とも、厳しい道のりを歩いてこられた。
だから、小磯さん、高荻さん、お二人の気持ちがよく、分かる。
人の話を聞くとき、同じ価値観の人の話は、聞きやすい。
価値観が違うと、なかなか聞けない人が多い。
価値観が違っても、話が聞けるのは、尊敬出来る人か、好きな人の場合だと思う。
尊敬できる人に言われると、今までなら、あっ、それは、違うでしょう!と思っていたものが、尊敬できる人に言われると、あっ、そういうのもあるかなと思える。好きな人の場合も、あっ、そうかもと思える。
畑村会長、炭粉先生のお二人とも、積み重ねてこられた方なので、小磯さん、高荻さんのお二人とも尊敬できるべき、師匠だと思う。(積み重ねてこられたという点では、小磯さん、高荻さんも同じ価値観。)
その尊敬できるお二人が、目の前で、本物を、やってみせて頂いている。これは、納得するしかないだろうと思う。
畑村会長、炭粉先生のお二人のアプローチの仕方は、それぞれ、違うかもしれないが、お二人の言う通りにしていくことが、小磯さん、高荻さんの心をどんどん解放していくんじゃないかなと思います。
小磯さん、高荻さん、素晴らしい、畑村会長、炭粉先生に出会えてよかったですね。
お会いしました時、いろいろお話聞かせてください。
よろしくお願いいたします!
本の中に、アイキモードという言葉が出てくる。小磯さんは、会長にかけられたり、会長のアイキモードと、お手合せされている。その中でも、一番のアイキモードが、高荻さんとの自主稽古の時は、まさに、武神が舞い降りたような状態と書かれている。
小磯さんが、会長から、「当たってもええねん。『受けよう』という気持ちを捨てて、『迎え入れる』でやる。そうすると、攻撃した相手の反応も狂うし、技も決まる。」と言葉や、
炭粉先生からは、「合気とはある意味、全く相手と歩調を合わせないことで相手をギョッとさせる行為のことです。人同士が格闘する時、自由に攻防しているつもりでも、実はお互いに『格闘する』という約束をしっかり守っているのです。それを舞いなどの別の行為にすり替えることで、相手がよく見えてきたり、スローに見えてきたりする現象が生じます。何せ、『格闘する』約束を反故にするのですから。約束事とはつまるところ、脳が『~しなければならない』という思考のフィルターを通すことですから、その分遅くなるのです。」要するに、受けようとした時点で筋力の反応が起きる。そうではなく、迎い入れることで別の動きが身体の中で始まるのだ。そのような体験がいきなりのアイキモードにつながったのであろう。以降、何度かこの現象を体験した。攻撃してくる相手にこちらは闘う心一切無し。にもかかわらず、相手の動きが事前に見えて速く反応できる。と小磯さんは、書かれている。
ベンジャミン・リベットのマインド・タイムという本の中で、認識に、0・5秒かかるというのがあります。つまり、みんなが今と思った事は、0・5秒後の過去を、今と認識している事になります。時間の概念は、その人の意識によって、様々だと思いますが、一般的には、過去があり、現在があり、未来があると考えいる人が多いと思います。これを、未来は、少し経つと、現在になって、もう少し経つと、過去になると考えてみます。川に例えると、川の上流が、未来、中流が、現在、下流が過去です。みんなが思っている今は、本当は、過去なので、結果は、決まっています。その決まった過去を、今と認識しています。つい、先日、懇意にさせて頂いている行徳の先生と、話していて、みんなは、今と思っている、この過去にアプローチしているので、上手くいかないですよね。という話が話題にのぼりました。川の下流の過去より、上の中流に、石を置くことが出来れば、みんなが現在と思っている今(本当は過去)を変える事が出来るのかなと思います。(別に事象に対して、囚われがなければ、起こる事が決まっていても、大丈夫ですが。)
高荻さんは、第三の合気「合気モード」として、こう書かれている。
合気修行者が「合気モード」と呼ぶ「無念無想の境地」がそれである。筆舌尽くしがたい世界なのだが、私は、氣空術を学ぶことによって、幸運にもその初門に至ることができた。いったん合気モードに至れば正に自在。余計なことは何も思考する必要はなく、ただ触れるだけで相手は崩れ倒れていくのだ。技術を捨て、思考を捨て、自分自身すら意識に登らせることなく、全てあるがまま。水が流れるように動くだけで目前の敵はことごとく敵意を失っていく。たとえるとするなら、正に「天上天下唯我独尊」の境地である。
高荻さんは、氣空術を学び、氣空術の素晴らしさを知り、吉彦さんからは、冠光寺の愛魂上げをしてもらい、上がる体験をされ、下村さんとの自主稽古で、愛魂を体験されました。そこで、愛に対する感度が上がったのかなと思いました。そうして、炭粉先生との痛み稽古で、炭粉先生の想いを感じ捉え、会長や炭粉先生が掴んでいる感覚を体験されたのかなと思います。更に、下山さん、谷内さんとの自主稽古の自由攻防で、正しく、炭粉先生の痛み稽古の炭粉先生の立場になり、合気モードが発動されたのかなと思います。
愛って、男女の愛とか、親子の愛とか、動物の愛とか、無償の愛とか、いろんな愛があると思います。
無償の愛は、禅の自分も他人もなく同じように考えられる境地と同じだと思います。
私的に分かるのは、我欲がないと、相手とぶつかるべきものがないので、その人と、対峙したとき、相手は、愛を感じるようです。
高荻さんが、こう書かれている。
実際の攻防戦に於いては、我々は常に相手の思考や動作に心が捕らわれてしまう。視野は狭くなり、呼吸は浅くなる。恐怖故に相手から目を離すことも、心を解放することもできなくなる。所謂、固まった状態になってしまうのだ。正に相手に(環境に)呪縛されたかのような状態に陥りやすくなる。剣術の世界ではこのような膠着状態を「合気」と呼び、避けるべき状態であると教示してきた。対して、この状態から離脱することができれば、初めて真の自由を得、心身ともに自在に動けるようになる。人間の魂は歓喜し、まるで舞を踊るかの如く自然に開放されていくのだ。受けはどれほど意識して攻め込もうとも、こちら側に影響を及ぼすことはできない。その状態は己の外で発生する事象全てに捕らわれることを嫌い、多くの信号を無(零)に帰してしまうからだ。逆に仕手側は、受けの身体に触れるだけで「かけるべき合気」がは発動する。受けにしてみれば、触れられた箇所からは、護身に供する十分な情報が伝わったこない。また、どの箇所にどのように質量が伝達されているかをいつものように察知することができなくなる。仕手の不思議な状態に気が付いたときには、時既に遅く、バランスを立て直そうとしても、もう間に合わないのだ。既に体の軸はゆがめられ、もはや立っていることができなくなるのである。これこそ「かけるべき合気」ではないか。この「観の目」の境地を得て初めて、「かけるべき合気」と「避けるべき合気」の矛盾がことごとく消失するのである。
高荻さんと、小磯さんは、今まで、数々の実戦を積んでこられ、合気モードを知っている会長と、炭粉先生に出会い、お二人もその境地に至る事ができたのかなと思います。
合気モード、いつか、是非体感したいと思います。よろしくお願いします!(*´∀`*)
今回、氣空の拳を読みまして、この本に出ているみなさんの熱い想いが、とってもいいなと思いました。
やっぱり、真剣に追い求めるその姿勢に、ちゃんと、結果はついてくるんですね。
ありがとうございました。
松岡良一
小磯さん、高荻さんの共著、「氣空の拳」という本を読んだ。
氣空術を学んでいるお弟子さんが書いた本だ。
小磯さんは、元キックボクサーの方で、高萩さんは、空手をベースに、いろんな武術をしていた方である。
いいなと思ったのが、小磯さんの、心情が書いてある所である。
真剣にずっと、やり続けている方なので、その中で掴んできてきたものがある。
だから、で、実際どうなの?となる。
そういう、心の熱い思いを、正直に書いてある。
それは、それだけ真剣に関わってきた事だから、試さずにはいられないと思う。
それを、実際にやってみて、その事の考察を書いてくれている。
「氣空術は、この感覚で得る動きが数多い。考えるのではなく、感じる。それによって、技の感度や感覚を心と身体で練り上げていくのだ。」
「稽古では、以前、自分がやっていたような、かかるものか、は間違い。初めのうちは、お互いに感知して確かめ合いながらの稽古が、力は入れずに出す、を知ることにつながっていくと思う。むろん、相手に合わせてかかってあげる、は間違い。それでは、技の習得にならない。稽古の雰囲気を楽しむのはいい。しかし、楽しむあまり、わざわざ、相手に同調して、かかってあげる状態、にするのは単なるラポールだ。これでは相手ばかりか、自分の稽古にもならない。技(動き)がある程度のレベルできるようになれば、相手が力任せで対応しようが簡単に投げ、崩すができる。できるようになったら、より、感覚の精度を高めていく。支部稽古でできたからといって、それは、会得、には及ばない。どんな場面でも、使える技、とするからにはやはり、修練を積む以外にない。何度も繰り返すようだが、武術の技、インスタントでできるようなものは何一つとしてない。地道な繰り返しの中から体得していくしかないと思っている。」
と、書かれている。
私も、最初の頃、黒帯の人を相手に力試ししたりしていた。これをやると、我が出て、愛が出なくなってしまった。力を出すと、感覚が感じられない。そうして、黒帯の人のプライドを傷つけてしまった。それからは、相手を見て、やるようにした。黒帯の人の中に本気でやらなきゃダメという人がいた。でも、そうすると、強い方が勝ちになるんじゃないかと思った。ある黒帯の人とやると、岩のように全く動かかなかった。そして、寡黙な人だったので、私はやる度にダメだなと無力感を感じた。幸い、いろんな先輩方がいて、導いてくれたお陰で、うまくいったり、いかなかったりを経験さして、頂いた。
ある有名な武術家の方に、教えて頂いている時、力で対抗してみようと思って、やってみた。すると、やってもいいいけど、何でもありになるよと仰られた。(えーっ、そんなつもりじゃないのになぁ、と思った。(´・ω・`))そこで、思ったのは、何かを学ぶ時は、それに、限定しないといけないだなと思った。
一方で、かかってあげるのは、間違いという考え方がある。それは、かかってあげるという事をすると、それを、つい、私の実力と勘違いしてしまうから、ダメだという考え方である。
じゃあ、私より、実力のある人が本気出したら、何も出来ないし、かと言って、かかってあげるのは、相手の為にならないし、どうすれば、いいんだ?となるかもしれない。
この両方を満足させる為にどうするか?
それが、小磯さんが書かれているように、初めのうちは、お互いが感知して確かめ合いながらの稽古がいいと思う。
私であれば、今、このぐらい来ているよとか、身体のここまで、来ているよと、伝える感じにしている。
また、相手の方に、どんな感じですか?と聞くようにしている。
人の身体って、みんな違って、ある一定の強さを、1と感じる人、5と感じる人、10と感じる人がいる。身体の大きさや、筋肉の強さや、反射神経や、スタミナが違う。心の方でも、協力的な人や、非協力的な人や、敵対心を持っている人もいる。だから、上手くいく相手や、上手くいかない相手が出てくる。本当は、全てを分かった人がいて、私は、レベル1000で、完璧です。私から、みると、あなたは、中心からの力の伝え方、不十分で、立位の時と、座位の時の身体の使い方が、違います。敵対心の強い相手の時は、あなたの心が萎縮してしまって、あなたの普段使える力が、45パーセントまで落ちます。あなたのレベルは、254ですとか。そんな人がいたら、楽でいいのですが、そうもいきません。みんなの「ものさし」は違うのだから、うまくコミュニケーションをとるのが、大事になってきます。そうして、いろんな人とコミュニケーションをとって、総合的に判断して、技術を高めていくのが、大事だと思います。
小磯さんの熱い思いが、そのまま、研究の原動力になってる感じがしまして、その時、思った、本音を書いてくれているのが、いいなぁと思いました。勉強になります。ありがとうございました。