所在地 | 〒272-0133 千葉県 市川市 行徳駅前2-22-2高橋ビル1F |
---|---|
電話番号 | 047-300-3820 |
FAX | 047-300-3821 |
matsuokaseikotsuin@nifty.com | |
院長 | 松岡 良一 |
Blog記事一覧 > 本。|千葉県市川市行徳駅前 松岡整骨院 - Part 7の記事一覧
山田鷹夫さんの「不食」という本を読んだ。
昔、山田さんの「人は食べなくても生きられる」という本を読んだ。10年ぶりのこの本で、山田さんが、この本で、どういう気づきがあったか、興味があった。
本の中で、幸せの湧く井戸という文章がある。
「古い井戸がある。清冽な水が湧いている。
人々はその水でのどの渇きを癒していた。
だがあるときに思った。もっとたくさんの水が手軽に得られるようにしたいと。
そうして人はその井戸の中に石を投げ込んだ。石を入れた分だけ水位は増した。
次から次へと石を投げ込んで水位を上げた。
やがて投げ込んだ石によって水源が塞がれて、泉は途絶えた。人はその井戸を捨てた。
その癖は今でも変わらない。新しい井戸を見つけてはまた石を放り込むのだ。
何もしなければ泉は溢れ続ける。何かを詰め込むからもともとあった歓びは消えてしまうのだ。
無人島ではそのことがよくわかる。
何もないし、何の予定もないという暮らしがある。現代とは対極の暮らしがある。
そこで気がつくことは何もしなくてもいいのだということである。
何もしなくても人は満たされる、人は幸福であれるという実感だ。」
と書いてある。
何もなくても、幸せという事がわかれば、外側に幸せを求めなくてもいいと思う。
多くの人が、外側に幸せを求めている為、いつになっても、満たされる事がない。
{山田さんの母親は、父親と朝から晩まで働いて、藁葺きの旧家から、新しい家を建てるまでになった。
山田さんは、そんな両親を見て、彼らの生き方は、「頑張る、我慢する、心配する」と思った。
だれよりも頑張ることが美徳とされて、つらいこともぎゅうっと歯を噛み締めて我慢する姿が美しいと賞賛された。
それに付随してあったのが「心配する」だった。
そんな母親に生涯の後半に彼女に、「もう十分にやってきて生活も楽になったのだから、もう好きなことをやっていいのだよ。」と。
当惑して彼女は答えた。「やりたいことがわからない」
あまりにも我慢して、頑張って、心配する事に集中し過ぎたものだから、若い頃にあったであろう夢と憧れがぼろぼろに朽ち果てて、消えてしまったのだ。
なんという人生であったことか。
それが彼女の人生だと言ってしまえばそれまでだが、彼女の生き方は日本人の生き方そのものではなかったか?
そして、母の背中を見つめて育った事により、僕だけの教訓が生まれたのだ。
「頑張らない、我慢しない、心配しない」}
と書かれていた。
山田さんは、母親の姿を見て、その逆の生き方を、考えるようになった。
うちの父親も、山田さんの母親と同じ状況だと思うが、私の場合は、頑張る、忍耐、行動する人になってしまった。
それは、強い父親であり、厳しい治療業界であった為、そう成らざるを得なかったと思う。
山田さんの、何もしなくても人は満たされるというのを、体感する事が出来ると、
なくても生きていけるが、分かるので、心配がなくなる。(ある事が、普通だと、ないと欠乏感を持つ。)
努力して手にいれたもの。
楽しみながら手にいれたもの。
今までは、努力して手にいれたものの方が価値があると思っていた。
同じ仕事を、一人の人は、努力しながら、もう一人は、楽しみながらする。
プロセスは、違うかもしれないが、結果は、同じ。
努力とは、心の中に葛藤がありながら、頑張る事。
そうして、成し遂げると、心が成長した気がする。
楽しみながらとは、心の中に葛藤のない状態で、ウキウキしている感じ。
その状態の人は、心に観念(こだわり)がないので、その事に純粋に楽しめる。
苦しんだって、楽しんだって、どっちの入口から、入っても、没頭状態になると、そこには、幸せしかない。
という事は、努力したい人は、徹底的に努力すればいいし、楽しんでやりたい人は、徹底的に楽しめばいいと思う。
これが、腑に落ちると、価値観の違いで、悩まなくなる。
どんな環境でも、どんな状況でも、全ては、本人次第だ。
今の状況は、本人と周りの関係によって出来ている。
今の状況が好ましいので、あれば、そのまま本人の判断でいけばいいと思うし、
好ましくない状況であれば、周りをみて、本人の判断をチエックし、修正すればいいと思う。
(本人の好ましくない状況が誰かの為になり、本人がそれを、いいと思っている場合は、この限りでない。)
とにかく、全力でやってもいいし、全力でやらなくてもいいし、ただ、本人の納得出来る人生ならそれでいいと思う。
零式活人術という炭粉先生の本を読んだ。
この本を読んで思ったのは、山登りである。
山登りにも、いろんなルートがある。
お花を見ながら、景色を楽しみながら、楽しく登って頂上を目指すコース。
断崖絶壁を、悪戦苦闘しながら、必死で登って頂上を目指すコース。
どちらも、頂上から見る事が出来れば、いろんなコースがあるのが分かると思う。
私などは、才能というものが、無かったので、とにかく、努力と、根性だけで頑張るしかなかった。
社会で揉まれ、お腹が痛くなったり、お尻から、太もも、ふくらはぎ、足までつって、曲がったままになったり、
朝、起きたら、鼻血で,血の海になっていたりした。
そんな感じで、頑張って積み重ねていると、現実は、少しづつ、理想に近づいていった。
ただ、世の中には、もっと、もっと、命懸けの努力を、重ねている人がいたりした。
元々は、凄い理想家なので、いろんな事を夢みていたが、現実は、一歩、一歩頑張るしかなかった。
私の場合、元々は、嫌いな努力や、根性がいつのまにか、習慣になってしまった。
そうしていると、心の内面では、頑張っている人は、好きだが、頑張らない人は、嫌いという感情を持つようになった。
苦労してこそ、価値があり、物事を把握して、から出ないと、楽しめなかった。
最初から、楽しんでやるという考え方は、なかった。
今は、価値観で、判断しなくなったので、努力しなきゃ、苦労しなきゃダメという事は、なくなった。
人と人が出会い、その場がうまくいきやすいのは、同じ価値観を持った人同士だと思う。
努力が大事だと思う人が、努力が大事という人と同じ場にいる。
楽しい事が大事と思う人が、楽しい事が大事という人と同じ場にいる。
同じ価値観同士の方が分かりあえる。
努力が大事だと思う人と楽しい事が大事という同じ場にいる。
ここで、お互いの価値観で、話をしても、この場は、うまくいかない。
この時、お互いの価値観は、棚上げして、ただ、ただ相手の事だけ考えると、
本人の我のない状態なので、相手の心の内面が出てきていい状態になる。
この時は、今までのように、価値観がぶっからないので、相手の話が、すーっと聞ける。
これが、出来るようになると、今まで嫌いだったものや、世界が、あっ、そういう考えもあるんですね。
と思えるように、なって、表、裏と物事の一面しか見ていなかった事が、表裏は、ひとつというのが、分かってくる。
今は、私という意識をどんどん大きくして、より自由度を、あげていきたいと思う。
保江先生と矢作先生の対談本、「ありのままで生きる」という本を読んだ。
自由な考えの保江先生と、聖なる考えの矢作先生が、同じテーマについて、話している気がした。
本当は、みんな赤ちゃんのように無邪気に生きると伸び伸びして楽しいと思う。
ここは、地球の日本という国。
法律があり、常識があり、道徳があり、みんなの心の中に観念があり、ルールがある所である。
大人は、赤ちゃんが大きくなるにつれ、いろんな事を教えようとする。
それは、何も知らないから、教えてあげようという気持ちである。(悪気は、ない。)
大人になって、みんないろんな悩みを持つ人が多いと思うが、その中のひとつは、本人の本当に望む事と、
周りのルールに合わせなきゃいけないという心との葛藤があると思う。
今、私の思っている事の判断基準は、、果たして、本当に、私が心底望んでいる事なのかを、追求していくと、
どんどん、心が楽になる。
赤ちゃんの無邪気は、みんなから、愛される。
大人の無邪気は、ルールが正しいと思っている人から見れば、我があるようにみえる。
善という考えで、悪は、間違えと思っている人と、善というのが、好きな人がいると思う。
赤ちゃんの無邪気さを持つ人と、聖なるものを好む人が出会うと、そこに、何を思うのだろうか?
純粋無垢な心を持った人が、このルールの多い世の中で、一生懸命、誠実に生きている人に出会い、心を打たれたのかもしれない。
一生懸命誠実に生きている人が、純粋無垢な心の人に出会い、肩の力を抜いてもいいだよという事に気付いたのかもしれない。
もし、全ての事が分かっていたら、私の行動が周りにどう影響するか?私も周りも幸せにするには、どうしたらよいかが分かると思う。
もし、見えている範囲が狭いのであれば、ただ、目の前の事に、一生懸命力を注ぎ、それを、没頭するくらいまで行い、
一日の中で、没頭する時間を少しづつ、増やしていけば、いつのまにか、幸せしかない状態になっていると思う。
日曜日に、道場の稽古の後の、飲み会で、先輩の鈴木さんが、勝海舟の父の勝小吉が、なかなかの暴れん坊という話をしてくれた。
夢酔独言は、勝海舟の父、勝小吉が書いた本である。
この父の影響が、勝海舟にあると思うので、興味が出て読んでみた。
勝小吉という人物は、最初の内は、自分勝手に我が儘放題ばっかりやっていた。
特に、この時代、礼節とか、規則とかで、ガチガチの時代で、この人物は、とんでもない奴という風に見られていたと思う。
喧嘩も竹槍や、刃物とかもあるので、胆力が鍛えられたと思う。
21歳から、24歳まで、父親により、家の座敷牢での生活となった。
この時、本を読んで、道理を学んだ気がする。
この後は、人と相対する時は、正論で話をして、自分の意見を主張したり、道理を分かっているはずだが、つい昔の癖で、ズルさがでたりしたようだ。
小吉に、ある老人が、「世の中は恩を怨みで返すが世間人のならいだが、おまえはこれから怨みを恩で返してみろ。」
と言われ、そのようにしたら、やかましいばばあ殿(小吉にダメだ、ダメだと言っていた。)もだんだんよくしてくれるし、世間の人も頼ってくれるようになった。
小吉は、我が儘で生きてきたが、人の役にたつと、人から感謝され、その喜びを知り、こういう人生もいいなと思ったと思う。
勝海舟は、この自分勝手に生きる父を、見て、反骨心を抱き、それが、原動力となり、父親譲りの胆力が、磨かれていったのではないかと思う。
勝小吉、この人物のいいなと思った所は、良いも悪いも、正直に書いてある事だと思う。
最近、思う、強さとは、気の荒らさでもなく、腕力でもなく、武力でもなく、知力でもなく、経済力でもなく、権力でもなく、
どんな相手でも受け入れる心の広さだと思う。
気の荒らさは、相手を認めれる事が出来ない心の弱さであり、腕力、武力、知力、経済力、権力は、これが、あるから、強くいられるのであって、
やはり、心の弱さの裏返しといえる。
少し前の私は、強さより、心の広さとか、愛の方がいいと思っていた。
今考えると、気の荒らさとか、腕力、武力、知力、経済力、権力の一面だけを、見ていて、その裏の弱さを見ていなかったと思う。
だから、出来るだけ、その人の一面だけを見るのではなく、丸ごと分かりたいと思う。
人を見た時、一番許せないものを感じたとき、その人の中に一番許せるものが、内面にあると思う。
という事は、表面的なコミニケーションでは、お互い、対立する仲だとしても、
腹を割って話し合う事が出来れば、お互い理解しあえると思う。
クローズという漫画を、やっと、整骨院に持ってくる事ができた。
15巻、16巻が家で行方不明になり、受付のみなっしーに持ってくると言ってから、2~3年年の月日が経った気がする。
昔、おじさんの部屋で、この漫画を見つけ、熱くなった記憶がある。
男性ならば、強さに憧れるというというのが、あるだろう。
この漫画は、いろいろその人なりの悩みがあった時、主人公に出会うと、主人公の笑っちやうぐらさの強さが、ガッンと、脳天に響いて、
人によって、真正面から、ぶつかったり、悩んだり、画策したり、していたのが、どうでもよくなり、すかっとして、気分がよくなる所が魅力である。
男性の患者さんは、結構ファンの人が多い。
みんなが今いる場所で、本気のコミュニーケーションをすると、今まで、見えていなかった世界が、お互い分かるようになり、
加藤さんの、「自分を愛する技術」という本を読んだ。
元々、人の為には、頑張れるけれど、私の為には、なかなか頑張れない私にとって、
最近の注目は、私を愛するという事だった。
私を粗末にしている人が、相手の為に行うのと、私を大事にしている人が相手の為に行うのでは、効果が違うのではないかと思ったのが、きっかけだった。
昔から、人の為なら、迷いなく頑張れるけれど、私の為だと、頑張れない事が結構あった。
今、愛の気持ちの状態であると、心の葛藤が無くなった。
どうしても、みんな生き方が違うので、例えば、全く正反対の生き方をした2人が、Aという物事を見た場合、一人は、それを良いといい、
もう一人は、悪いという。
だから、全く違う価値観を持った2人が、お互いの価値観で、話あうと、理解出来ない。
そこに、愛というのを、持って、相手を見ると、信頼関係が出来る。
信頼関係の出来た2人が、全く違う価値観を持ってい場合、お互いが、嫌っていた世界が見えてくるので、
世界は、思いっきり広がると思う。(陰陽の統合、表裏一体と言えるかもしれない。)
お互いを認め合う、楽しい世界。
こんな感じにみんながなるには、どうしたらいいか?最近考えている。
そんな時に、同じ気持ちのこの本を見つけた。
加藤さんは、自己変容の3段階として、
ステージ1
「アクション」という領域
体を使ってどう行動しているか?
行動全ての他に、目標設定や行動計画、優先順位管理、タイムマネジメント、金銭管理等、
現実や結果を実際に形創る役割を担っている場所。
ステージ2
「マインド」という領域
心で何を考えているか?
イメージングやアファメーション、ビジョンマップ、心理学や哲学、信念、想念等、
現実や結果の青写真、設計図としての役割を担っている場所。
ステージ3
「セルフラブ」という領域
魂がどう在るか?
純粋意識、純粋な自己肯定感、愛し愛される喜び、未来への期待やワクワク、使命感、幸福感等、
ここは現実や結果を創るために無限のエネルギーを供給する役割を担っている場所。
大まかには、
自分を愛する→純粋性が上がる→ありのままを見られる、感じられる(真実を見抜けるようになる)→想念が解放される→
自分が出来ると知る(使命や夢に気付く]→夢が実現する
その中で、自分を愛するという項目では、
「好きな人と一緒にいる」
「好きなことを探す」
「好きな格好をする」
「本音で生きる。自分の気持ちに素直になる」
「体をしっかり休める。ゆっくりと入浴する」
「弱い自分やできない自分も価値ある自分だと受け入れる」
いつも嫌いな人といて、やりたくないことをやり、誰にも本音を打ち明けられず、疲れやストレスを溜め込み、できない自分はダメだと裁いている。
と書いてある。
私は、努力、根性という言葉は、好きだが、努力、根性でうまくいく人と、うまくいかない人がいる。
うまくいく人は、それが大事と思うかもしれないし、うまくいかない人は、つい他の性にしたくなるかもしれない。
本当は、何かができるという事と、本人の価値は、関係ない。
が、それを、何かができる、できない事を、本人の価値と混同している人が多い。
本当は、全ての物事と、その物事の意味は、本人がしているだけであるから、関係ない。
であるならば、本人が自由になる為の意味付すれば、いいと思う。
よく、人を変える事は、できないという。
人を他人として、思って接していれば、変える事は、できないと思う。
人を私と同じように、私の分身と思って、真剣に向き合えば、変わる気がする。
これは、人生において、実証していこう思う!(加藤さんの話されるパワーパーソン)
人生は、どう生きたっていいと思います。
坂東さんの記事に、「畑から宇宙が見えるー川口由一と自然農の世界、新井由己」
という本が載っていた。
今、千葉の実家の方で、父親が畑を借りて、野菜を育てている。
父親の実家は、農家なので、ぜひ、読んでもらいたいなと思い購入した。
川口さんの自然農は、耕さず、肥料・農薬を使わず、草や虫を敵としないというのが基本。
本を読んでの最初の感想は、効率という考えと、心を込めるという考えの2つがあり、効率を求めるあまり、心を失くしているいるなと思った。
本の中に、「多くの人を養ううために始まった慣行農法は、安価で安全な食糧を安定的に大量に生産するのが、目的だ。
農薬を用いながら、たくさんの人の食糧を約束してくれる。」
ここだけ、見ると、たくさん出来るので、効率的といえる。
ただ、川口さんは、本の中で、「トラクターやコンバイン、田植え機などの農業機械を使うことにによって、それらのものを用意するために、
どれだけの人の手間がかかっているか考えてみるといいだろう。石油を掘り出す、石油を運ぶ、機械をつくる、機械をつくる工場を建設する、
機械をつくるのに必要なエネルギーを用意する、燃料を確保する・・・・・と、気が遠くなるほどたくさんの人が関わっている」と話されている。
これだけ、手をかけているのが、効率は、、いいと言えるだろうかと指摘している。
確かに、これを、考えると、効率的と言えない気がするが、違う側面から見ると、たくさんの仕事があるので、雇用を生んでいるとも言える。
審美眼を養い、本物と偽物を見分ける目を持つのが、大事だと話されている。
本の中で、境地という言葉を使って、その中に相対界と絶対界がある。
相対界が、個々という意識、絶対界が、全体という意識。
川口さんは、一体であるのと同時に個々別々であることを悟れば、対立し、争うこともなく、自他ともに平和に生きることのできるところに立てます。
と話されています。
これは、例えば、一人の男性が、個人の意識だけを優先させるより、奥さんがいれば、夫婦としてどうありたいか、子供がいれば、
家族として、どうありたいか、会社に勤めていれば、会社として、どうありたいか、市に住んでいれば、市としてどうありたいか、日本に住んでいれば、
日本としてどうありたいか、地球に住んでいれば、地球としてどうありたいか、宇宙に住んでいれば、宇宙としてどうありたいか。
人によって、物事の見える範囲が違います。
仕事に関しても、一生懸命やる人、お金の為にやる人、好きでやる人、嫌々やる人等、いろいろいると思います。
会社とそこで働く人、一見別物のような気がします。
しかし、会社というものに自分という意識を持てれば、その中で、私の役割が見えてきます。
それが、その人個人を輝かせる事になります。(結局は、自分の為になる。)
人が出来る事は、今、ここしか関与出来ないのですが、物事の見える範囲をどんどん広げる事で、より多くのものの為になり、また、自分の為になります。
だから、少しづつでも、いいので、自分の心の納得出来る範囲で、いろんな物事を受け入れる事は、結局は、みんなの為が、自分の為になります。
楽しい人生を送りましょう!
患者さんと、ダイエットの話をした時、「あなた半年前に食べたものでできているー村山彩」
という本を教えて頂いた。
人間の身体は、食欲センサーが正常に働いていると、身体の思うままに食べていい。
ただ、この食欲センサーが、狂っていると、食べ過ぎてしまう。
狂う原因は、ストレスだ。
数々のダイエットに取り組み、ことごとく失敗私は、知識だけは、ある。(1回だけ、成功した。)
身体に入れるカロリーより、身体から出るカロリーが多ければ痩せる。
ストレスの手っ取り早い解消は、美味しいものを食べる。
私は、朝から晩まで仕事をしているので、頑張っているので、食べる事を許している。(頑張ってるから、食べてもいいじゃん)
表面的理解では、こう思うのだが、実際の所は、食欲を抑える事が出来ない。
私自身を第三者的、見方をした場合、夜、思いっきり食べる、朝、豆大福、コーヒー、を単純に逆にするだけで、大分違うと思う。
本の中にも、書いてあるが、自分にご褒美は、自分の為にならない。
この意味は、確かにその時は、幸せだけど、それが、身体を壊すのであれば、本当に自分にとってご褒美と言えるのか?
という意味である。
昔、親戚の男の子に整骨院を手伝ってもらっていた。
彼は、細い感じである。
彼と食べ物の話しをしていた時に、彼は、たくさん食べた時は、その後、お腹が空くまで食べなくていいと言っていた。
また、自然と果物が、食べたくなったら、食べると言っていた。
この話を聞いた時、三度、三度ご飯を食べるという考えより、身体の声に従って、食べるのが、本当は、いいんじゃないかと思った。
また、患者さんのOLさんと話しをした時、甘いものにそんなに興味がないと言っていた。
その話を聞いた時、甘いものにそんなに興味無いなんて、和菓子大好き、洋菓子も好きの私にとっては、信じられなかった。
本の中に書いてある駅伝選手達が、水分を補給出来るポイントで、水、スイカ、バナナが置いてあった時、
選手全員が、スイカを選んだ。
それは、身体が、欲しい、失われた栄養素、水分、糖、カリウムがスイカに入っているのが、分かっているからと書いてありました。
食欲には、頭がつくるものと身体からくる食欲がある。
昔、ダイエットをした時に、毎日、節制をしていて、仕事終わりの夜に、今日は、絶対、鳥のから揚げを食べる!
凄まじい衝動が、起こりました!食べる!食べる!食べる!食べる!食べる!
この時、別の事を考えました。(何を考えたか忘れました。世界平和?嘘、嘘)
すると、その強い、衝動がおさまりました。
この時、考えたのは、人間は、同時に2つの事を考えるのは、難しい、
だから、別の事を考えた時に、から揚げは、考えられないとそう思いました。
ただ、この本で書かれている、偽者の本能は、とにかく、十秒おく、水をひと口飲んでみる。
これで、欲がおさまるなら、本物ではないと書いてあります。(これだったと思います。)
身体が、本当にお腹空いたというのなら、ずっとお腹が空いてるでしょう。
ダイエットで、食生活を変えようとしても、正しい食欲センサーは手にはいらない。
と書いてあります。
それは、ストレスで食べちゃうのに、食生活を変える事がまた、ストレスになって
我慢になるので、キツイ!
で、どうすればいいかというと、
二十分の汗をかくくらいの運動
運動で失った栄養素を補う食事
の二つだそうです。
今まで、持っていた知識は、運動でカロリーを消費する。
筋肉をつけ、基礎代謝をあげる。
運動自体の消費カロリーは、そんなに高くない。(ケーキは、カロリー高いのに、同じだけの運動は、大変だ!)
二十分の汗をかくくらいの運動は、身体の循環がよくなり、悪いもの押し出してくれる
身体自体の食欲を感じる為のもの。
運動で失った栄養素を補う食事
ごはんと味噌汁やスープなどの汁ものに主菜ひとつと副菜をふたつ加えた一汁三菜。
頭でつくった食欲に、翻弄されないように、身体の食欲を取り戻したい。
私が、異常な程の甘いもの好きは、嗜好ではなく、食欲センサーが狂っていただけだったんだと思う。
身体の求める食欲、身体の求める行動、身体の求める考え方。
患者さんに、痛みが無くても、身体の調子の良い時の百%と身体の調子の悪い百%は、
どちらも、一生懸命やっても、やっぱり差が出てしまうんですよ。
とよく、言ってますが、では、おデブちゃんの百%と健康体の百%では、
相当違うだろうなと思った。(ヤバイくらいになっちゃう。多分、髪の毛は、逆立ち(スーパーサイヤ人!)
ストレスは、強い刺激で打ち消せる。
村山さんのご主人は、トレーダーの仕事をしていて、凄いストレスがあるそうです。
その仲間が、やっているのは、トライアスロンだそうです。
強烈なストレスを強烈な運動で打ち消しているそうです。
ストレスに負けないようにするには、身体を鍛えるか、いろんな考えを受け入れる広い心を持つ事だと思う。
性格的に強いタイプは、ガンガン身体を鍛えてください。(ガンガン打つかって、いろいろ気づいてください。)
性格的に優しいタイプの人は、世の中には、いろんな考えがあると、ちょっとづつ、気づいて心を苦しめないようにしてください。
上は、身体を鍛えるというイメージ、下は身体を愛するというイメージ。
私自身を分析すると、身体に対して愛が足りない。
その結果が、身体に無理させている。
年末から、今年にかけて、個人用のパソコンのインターネットが、なかなか繋がらない。
トントンクリックしたり、祈ったりして、たまに繋がったり、何週間も繋がらなかったりしている。(今だに、原因は、分からない。)
久しぶりに繋がったので、ブログが更新出来た。
「溶ける」という井川さんの本を読んだ。
大王製紙の創業家三代目で、カジノで、106億8000万円を負けて有名になった人だ。
どういう気持ちで、このような状況になったか、興味があった。
裕福な家庭で、生まれて、何不自由なく育ち、我儘放題で、ギャンブルに狂ってしまった。
マスコミの報道を、見ていると、そういう印象を受けたが、本を読んでみると、違った。
本人が、暴君と呼ぶ厳しい父親の元で、徹底して、鍛えられていた。
父親の良い面を吸収し、結果に凄いこだわりを持ち、抽象的な事は、嫌い、具体的な行動に、重きを置いていた。
このやり方で、会社を、うまく導いて頑張っていた。
一方、ギャンブルで、病的賭博という言葉があり、これに、該当するらしい。
大きな金額を、かけないと快感が得られないらしい。(そのドキドキ感が、興奮するらしい。)
会社を背負っている、そのプレッシャーの捌け口のギャンブルかというとそうでは、ないらしい。
本人、曰く、ギャンブルが好きだそうだ。
私が、思うに、どんなに大変な状況であっても、仕事に関しては、本人なりの分析と行動で、上手く出来てしまう。
そんな時に、バカラという運の要素が、大きいギャンブルに出会った。
本人の文章によると、
カジノのテーブルについた瞬間、私の脳内には、アドレナリンとドーパミンが噴出する。
勝ったときの高揚感もさることながら、負けたときの悔しさと、次の瞬間に湧き立って来る「次は勝ってやる」
という闘争心がまた妙な快楽を生む。
だから、勝っても、負けてもやめられないのだ。
地獄の釜の蓋が開いた瀬戸際で味わう、ジリジリと焼け焦がれるような感覚がたまらない。
このヒリヒリ感がギャンブルの本当の恐ろしさなのだと思う。
と書かれている。
ギャンブルによって、彼は、初めて、心が解放されたのでは、ないかと思う。
現在、借金は、完済され、4年間の実刑の後、刑務所から、出てくるらしい。
文章の最後にこう書かれている。
一番信用できないのは、自分ー106億8000万円の代償として私が得たものは、かくも悲しい事実のみだった。
今度、出てきた時は、自分が、本当に、本心から、喜べるものを、ビジネスにするんじゃないだろうかと思う。
好きと上手に出来る(上手くこなせる)は違う。
観念の奥底に、ある本当にしたい事に気づくけば、人生は、楽しくなる。
今年は、どんどん、動いて行こうと思う!(動けば、世界が変わる)
今年の目標の内、2つは、今月達成する。
業捨(ごうしゃ)という本を読んだ。
谷原先生の業捨というのは、業を取る事で、症状を取るというものです。
具体的には、右手の人差し指に、拇指をそえ、人差し指の腹と爪の間で、シャツの上からこする。
この時こすられる時の痛みが、激痛らしい。(刺青の3倍から5倍)
こすられた背中は、人によって、赤くなったり、どす黒くなったりする。
この本の中に、胃袋の丈夫差は、生まれもったもので、あるけれど、腹八分に、食べておく事も出来るし、
逆に暴飲暴食して、胃袋を壊す事も出来ます。と書いてあります。(私は、分目位食べています。)
生まれもった環境は、人それぞれ、あると思いますが、人生どう生きるかは、自分次第だと思います。
朝、整骨院で、ニッポン放送をかけていて、人生相談の中で、変えられるものは、変えましょう、変えられないものは、受け入れましょう。
といっている。
つい、キツイ時は、人の性にしたくなってしまう。
私も、昔、整骨院のグループに、勤めている時、家が、金持ちだったら、オーナーに、負けないのになと思った事が、あった。
今、思うと、その状況を、人の性にしていた。
今では、努力すれば、なんでも出来るというのが、分かり、力がつけば、力のある人と出会い、
そこで、また、自分の未熟さに、気づき、目標にし、努力をする。
よく、才能がある、ないとか、いう。
同じ事をやって、直ぐ出来る人となかなか出来ない人がいる。
私は、元々直ぐ出来るというタイプでは、ないが、自分の事を棚に上げて、恐ろしい程理想を高く持つ。
そうすると、同じ練習の仕方では、器用な人(その事に関して能力の高い人)に追いつけないが、
別のやり方で、能力をあげたりする事が出来る事が、分かった。
という事は、本来学習する事は、画一的な練習方法でなく、その人を見て、その人にあった練習方法を行うのが、いいんだろうと思う。
AでダメならB、BでダメならC、CでダメならD、DでダメならE、EでダメならF、とにかくうまくいくまでやってみる。
本の中で、「人はまず、心の中で、思った事を口に出し、そして行動にうつすというのが、自然です。
ですから、心の中で思っていることが、清ければ、言葉も良くなり、従って行動も善なるものになります。
けれど、心の中に邪悪なものがあれば、言葉も行動も悪に走ってしまう結果となるのは当然でしょう。」と書いてあり。
特に、思いが大事と言っています。
悪い事を思ってても、法律で、罪には、問われませんが、憎しみや、怒りといった悪感情を抱くと、それが、心の奥に残る気がします。
悪感情が、起こるのは、自分の中にある、物の見方、考え方にあると思います。
悪い奴とか、嫌な奴とかは、普通、自分なら、そんな事しない、自分とは、全く逆と思う人も、多いでしょうが、
そもそも、悪いとか、嫌な感情が、分かるのは、自分の奥底に、同じものを持つからだと思います。
とすると、悪いあいつ、嫌なあいつは、自分と同じタイプ。(いい人、素敵な人も、同じタイプ。)
自分が、悪い奴、嫌な奴に、反応するように、相手も、自分の中にある悪い部分、嫌な部分に反応していると思います。
自分が、悪い奴、嫌な奴と思う人が、ある人には、素直でいい感じに、話をしているのを見ると、
(昔は、こいつは、悪い奴ですから、騙されないで下さいと思っていました。)
悪い奴、嫌な奴と思っている人は、ある人のいい部分に、反応しているのだと思います。
だから、自分の成長を見るには、悪い奴、嫌な奴と思っていた人と接して、快適な時間が送れるかだと思います。
世の中の葛藤の多くは、本当は、周りでなくて、自分自身が、つくっているのに、気づき、一つ、一つ、自分の奥底の考え方が分かると、
人生が楽だと思います。(そんな事は、言っていても、毎朝の豆大福は、止められません!)
毎日、毎日、なんとなく生きるのも、前のめりで、燃え尽きるように生きるのも、全て、自分次第だと思います。
とりあえず、全ての価値観を持てるように、一歩、一歩進んでいきます。