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アルケミアと、ジェムレーションという本を読んだ。
そもそも、このアルケミアという本を買おうと思ったのは、いつも、メールで、送られてくる本の紹介を見て、その本のインターネット上の書評を読んだ。その時、その本の批判的な書き方をしている方がいて、それならば、アルケミアの方がいいと書かれていました。その書評を見て、この批判的精神を持った人が認めている本なら、いいのではないかと思いました。
アルケミアとは、技法の事で、ジェムレーションの本の方は、この技法を使って、人生が変わられた方の体験談が書かれています。
アルケミアは、錬金術(アルケミー)のように新しいものが生まれるよということで、そういう名前にしたそうです。
アルケミアの具体的な手順は、次の通りです。
手順1 問題という現実を定義する「という現実」自分で自分の問題を認識すること。ここが一番大事です。本の中で、問題と自分を別々に感じるというのは、逃げているということなんですね。とか、問題を認識する時には、実は、肉体に負担がかかります。問題をちゃんと認識すると、体は打撃を感じるようになっています。とか、書かかれています。
手順2 極陽を割り出す。(最良の結末を想定する。)自分が想像しうる幸福、思い通りになる幸福を、「陽」と呼びます。たいていはストリーのみですが、それに「最良の結末」を加えたものを、「極陽」と呼びます。そして実際にやってくる想定外の嬉しい結果、「思いがけない」幸福を「福」と呼びます。
手順3 極陰を割り出す。(最悪の結末を想定する。)「困っている現実」から想像しうる「最悪の結末」を想定します。これを「極陰」と呼びます。どうして極陰を出さなければいけないのか?というと、そうしないと「新しい力が生まれない」ということがあります。マイナスを排除してしまうという間違ったプラス思考が今、蔓延しているのですが、そうではないですよ、ということです。極陰と極陽を「死」をベースとして言うとしたら、「こんな目にあうなら死んだほうがましだ」というのが、極陰で、「ああ、もういつ死んでもいい」と思えるのが、極陽ですね。極陰のとらえ方は、千差万別です。
手順4 統合 統合は、体を使って行います。体内で、極陽と、極陰を同時に体感し、混じり合っていくのを感じていきます。
実際のやり方は、
フープのような輪を2つ用意する。そして、歩幅ひとつ分前に、輪を2つ並べます。
1、輪を前にして、まっすぐに立ちます。これが現状のポジションです。ここで、手順1で出した「△△という現実」の内容を唱えます。閉眼内語(目を閉じて声を出さずに頭の中で唱える)で言います。「顔はまっすぐに、眼球を動かさずに」言うのがポイントです。言う時に、眼球や身体を動かす行為は全て逃避行動ですので、これをしないようにします。
2、自分から見て左の輪の場所を「極陰」とします。両足で輪に入り、先ほど想定した極陰の内容を思い浮かべます。この時の体感をしっかり感じてください。自分の全てがダウンしてゆく感覚をチェックしてください。落ちていくような変化を感じられたらOKです。
3、一歩下がって、現状のポジションに戻ります。体を揺すったり、よそ見をしたり、今日の晩ごはん何にしようかなと考えたりした、先ほど感じた体感を体から抜いてしまうようにブレイクします。
4、次に、右の輪の場所を「極陽」とします。右の輪に両足で入り、先ほど想定した極陽の内容を思い浮かべます。この時の体感をしっかり感じてください。すべてがアップする感覚があるはずです。変化を感じられたらOKです。
5、一歩下がって、現状のポジションに戻ります。体を揺すったり、よそ見をしたり、今日の晩ごはん何にしようかなと考えたりして、先ほど感じた体感を体から抜いてしまうようにブレイクします。
6、体内で極陰と極陽を統合していきます。左足を左の輪に、右足を右の輪に入れて、立ちます。手を胸の前で合掌します。手を合わせる線も、体も、まっすぐに立ちます。左半身は「極陰」、右半身は「極陽」。異なる体感が2つ同時に起こり、体が真っ二つになるのを感じるでしょう。その体感が体の中でどうなっていくのか、感覚に意識を向けて、起こることに任せます。
7、6でしっかり味わったら、終わったと自然にわかりますので、そうなったら後ろを向き、左右の足を入れ替えます。同じく手を胸の前で合掌して統合を味わいます。
8、ご自身で、2つが合わさって終わったな、という感覚があるまで続けます。終わったと感じたら、終わりです。葛藤がなくなっているのでわかります。
手順5
ここでもう一度、最初に唱えた「△△という現実」と言ってみます。この時の体感が最初と変わって、何も感じないようになっていたら大成功。それどころか、合掌すると、「何とも言えないよい感じ」が生じます。
実は、「△△という現実」という現状把握さえ正しくできれば、認知によって発動する力で自然に解決に向かっていくんです。何もしなくてもね。ただ、統合したら超高速で現実が動くってことなんです。便利でしょう?
(私は、ドンキで、フープを買いました。1個1000円。場を設定してもいいと思います。)
と書かれています。
私は、これを読んで、その通りな気がしました。これを実践した人は、問題の認識は、自分の中にある見たくないものを見ることと言っておりました。その人自身が、その人の中にある良いと思っている事、悪いと思っている事を認めてあげる事が出来ると、それに囚われていない事になるので、新しい事が起こると思います。例えば、こういう人、嫌だなと思っている人が、その人自身、あっ、でも、私もこういう気持ちもってるなという事に気づくと、相手も許しやすいと思います。最初は、嫌な人がいて、私を嫌な気分にする。でも、本当は、嫌なものを持っている私がいるから、嫌な人が来て、嫌な気分にさせるが本当の所だと思います。
この先生は、純化という言葉を使っています。赤ちゃんの無邪気と違って、磨かれていった結果、透明度が増して獲得された無邪気と言っております。赤ちゃんは、愛の人ではありますが、確かに、みんなが赤ちゃんになると、社会が存続できない。その純化の為には、圧力が必要と言っております。炭素をぎゅーと圧縮すると、ダイヤモンドという炭素結晶になる。これは、「純化する」って意味なんです。と書かれております。
日曜日に、山梨県の西沢渓谷に行った。
天気も良く、向かう途中では、富士山もしっかり望めた。
今回は、ハイキングみたいとの事だったので、殆ど、起伏のないのんびりしたコースと思っていた。が、実際は、しっかり、山登りで、いつも通り、先輩達のペースは速かった。(油断した、やられた。笑)
最近、患者さんと話をした時、その患者さんは、唯一のリラックスが漫画を読む事で癒されるとの事だった。その時の話で、人によって、趣味もいろいろあり、それは、他の人から、見たら、興味がないかもしれないけど、その人にとっては、凄く大事なものですよねという事になった。
で、考えた。私の趣味の山登りは、そこに、没頭する事が身体にも、心にもいい。山で食べるカップラーメンと、コーヒーは、とっても美味しい。もし、毎週行けたら、凄く、いろいろな事がパワーアップする!(近所に山があるといいなといつも思っている。)
まあ、でも、この山登りが出来るのは、先輩達が連れて行ってくれるからだと思う。たぶん、独りでは、迷子になってしまうと思う。これからも、いろいろ足を引っ張ると思いますが、先輩方、何卒、よろしくお願いします!( ^ω^ )
漢と書いて、おとこと読む。(漫画の北斗の拳や、男塾読んだ人は、分かると思う。)
患者さんと話していて、この患者さんは、漢だなと思ったりする人がいたりする。
男性だと、強さに憧れる人もいると思う。(私だと、今でも、元気玉作れないかなと思ったりしている。笑)
男とは、漢とは、こうあるべき、こういう男になりたい!こういう漢になりたい!
その強さが腕力だったり、精神力だったり、その人が人生を送る中で、求める強さが変わってくると思う。
私の思う漢は、強靭な体力と精神力を持っていて、日々の生活を100パーセントの力を出して、全力で生きている人。
こんな漢の人がいると、周りの人は、その人をお手本として、普段の生活に臨めるのかなと思う。(お手本があると、楽。)
漢の人に、どうですか?ライバルとか、強敵は、今までの人生の中にいました?と聞いてみた。そうすると、いないという答えばかりだった。もったいなと思う。強敵がいれば、切磋琢磨して、更に、いけるのに、と思った。だから、知っている事で、教えてもいいことは、話す事にしている。(そうして、ちょと、手合わせしてもらう。)
漢らしさを追究すると、何かが分かり、女らしさを追究すると、何かが分かると思う。
本人の理想を追究すると、思っていた所に答えが無い事に気づくと思う。
とりあえずは、身近な所にいる、素敵な人をお手本に、その素敵な部分をマネすると、そのマネした分、今より、素敵な私になれるのかなと思います。( ^ω^ )
日曜日に、台風の中、自由が丘に行った。(雨、風、凄かった。)
秋山先生、吉野先生、飛田先生のコラボ講演会があった。
今回の目的は、不食の秋山先生に、是非、一度会ってみたいと思っての事だった。
参加された方には、秋山先生のコーヒーが振舞われた。
お代わりした。(次の日のトイレが違った。)
講演会の話で、お坊さんのお友達がお坊さんを心配して連れてきた。
このお坊さんは、人の為に、とにかく、身を粉にして頑張り過ぎているという事だった。
そのお坊さんに、対して、まず、自分が幸せにならないといけないと話されていました。
身を捨てて相手の為にというと、日本人的には、素晴らしいという感じがしますが、身を捨てて相手の為に頑張っている時に、素晴らしいと思われる人と、心配される人がいます。
愛 感謝 ありがとう という言葉が出ました。
確かに、愛 素晴らしい! 感謝! 素晴らしい! ありがとう! 素晴らしい!と思います。
この時、愛でなければならない! 感謝しなければならない! ありがとうと思わなければならない!と思うのであれば、何か無理してる感じがします。この無理している緊張があると、心配されるのかなと思います。
只管打座という言葉があります。ただそのものに、なるとか、我を無くして管になるとかと捉えている人もいると思います。ここで、もうひとつ気づきます事は、我を無くしてと言った時点で、差別しているので、そこに我があるという事になります。実際は、只管打座の意味が分かっている人は我を分けていないと思います。
人によって、我という捉え方が違うので、よく分からなくなるかもしれません。
吉野先生は、我をワガママとあるがままと話しておりました。
私的には、我を制限された考え方と思っております。分かりやすい我は、ワガママですが、ルール、法律、道徳、倫理、それが、正しいと思った時点で、我と思っております。ただ、制限された考え方が悪いというのではなく、今の私だと、枠が無いなと思っていたら、あっ、枠があったという感じです。
磯さんという方が飛び入りで、参加されました。動物は、本能のままに生きています。自然の中で生きています。という話をされました。動物の本能のままに生きているは、その生き方で、調和がとれている。また、違う言い方をしますと、全体の中で、調和はとれるように、無意識に動かされているという意味だと思います。ここに、関係する話として、吉野先生は、人は、無意識に動かされるのを、拒める、自由意思があると話されておりました。磯さんは、具体的な話として、怒りが出た時は、ただ、怒りにまかせて怒るのではなく、いつものパターンをテイクアウトすると言い方をされていました。本来、そのままやると、怒りのままですが、その怒りに気づいて回避した。怒れるけど、怒らない。我慢した。これが、創造をした事になるそうです。確かに、怒りの場を違う場に変えていますね。どこかの場面で、お前は、動物のように本能のままだなと言われたり、出くわす事があるかもしれませんが、動物の本能のままには、調和がとれています。人が本能のままにと言われた時は、制限された考えで、相手と、全体を見ているから、軋轢が生まれます。だから、人の場合は、流れのままの世界で、調和の世界いる事も出来るし、拒んで、葛藤を楽しむ事も出来ます。この葛藤の状況を相手が創っていると思うか、私が創っていると思うかで、全然違うと思います。
愛とか、我とか、人によって、捉え方が違いますが、普段の生活の中で、ひとつ、ひとつ、腑に落とすをやっていくと、どんどん受け入れられる事が多くなっていきます。是非、やってみてください。
個人的には、帰りの電車の中で、吉野先生ともう一人の方と乗っていた時、先生が、もう一人の方に、「松岡先生は、松岡先生の周りには、動物が集まる。そんな愛。」と言ってくれました。これが、嬉しかったです。昔、マガジンで、ショウグンという漫画があり、その主人公が着ているものは、ボロボロなのですが、公園で、公園にいる鳥たちが肩にのったり、周りに動物とか、集まってきている場面がありました。こんな風になると嬉しいなと思っていました。最近では、虫が寄ってくる事は、あります。(悪い虫では、ありません。笑)
この言葉を聞いて、流石!吉野先生!よく、私の心を分かっていらっしゃると思いました。これからも、不束者ですが、よろしくお願い致します!( ^ω^ )