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院長 | 松岡 良一 |
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伊藤先生の所から、本が送られてきた。幸せの探求というその本を読んでみた。
昔、伊藤先生の所から、先生の所の療法の案内が送られてきた。胡散臭さかったので、ゴミ箱に捨てた。次に武術の療法を学んでいる時に、また、送られてきた。今度は、読んでみると、何か本物の気がした。取り合えず、参加してみようと思った。参加してみると、凄く、納得がいった。(武術の療法を学ぶようになり、アンテナ感度が上がったので、本物が分かるようなったと思った。)
伊藤先生は、症状は、サインという言い方をしていた。施術をする人は、病気、症状は、患者さんにとって、痛かったり、辛かったりするので、悪いものとして、受け止め、それをとってあげるのが、多くの施術家の人は、いいと思っている。でも、伊藤先生の捉え方は、違った。そのサインは、患者さんの今までの人生の生き方。そのサインを通して、患者さんが患者さんの人生に真剣に向き合うきっかけ何だなと思いました。この話を聞いて、症状をとるのが大事、早くとるのが、腕のいい施術家と思っていたのが、物事の一面だけしか見ていなかったと思いました。その頃の先生は、難病の患者さんの脳の情報を読んで、そのポイントを刺激すると、症状が消えるということが出来る指導者を育てるということをされていました。そして、症状の効果は、最初は、短いのですが、それを、続けていくうちに、効果の時間が長くなり、それを、患者さん自身にやってもらうというものでした。
ある時、先生と話していると、もっと、質問を限定してと言われました。その時、私は、この先生は、私という人生の波が見えていて、先生のとっては、同じ、波なのですが、私は、その波の一部分を問題として捉えているんだなと感じました。(ある時は、質問する前に、答えられてしまって、只者でないなと思いました。笑 )
先生は、今まで、100の地域と、100の仕事をされ、いろんな年代の人と関わり、その年代のその人の問題に取り組まれてきました。
先生の言葉で、印象的な言葉があります。何かの時に、先生は、ぐちゃぐちゃに絡まって、更に、ぐちゃぐちゃに絡まって、更に、ぐちゃぐちゃに絡まって、糸を解くのが、楽しいと仰ってました。これを、聞いて、凄いなと思いました。
もうひとつは、宇宙の誕生と、私の誕生の意味は、同じという言葉でした。その頃は、意味が分かりませんでしたが、今は、こう思います。私が生まれて、見える全ての世界は、私が創りあげた宇宙、だから、私の見える世界を全て把握して、初めて、私を把握できる。そうして、やっと、他の人と交流が始まるのかなと思いました。この日本の常識という世界で、言うとすると、その人の居心地のいい空間を広げる。
この頃の私は、伊藤先生みたいに、完璧を持って、患者さんと接してみたいなと思いました。ただ、先生の域に行くには、おじいちゃんになるかなと比べてしまいました。挫折。
ある時、伊藤先生に別の先生がその場合は、やり方は、何通り、あるんですか?と聞いて、いました。すると、先生は、全部やらなければダメ、手を抜いては、ダメと言っていました。
伊藤先生は、努力、根性でやってきた私にとって、スーパーマンのようにヒーローです。その生き方が素晴らしいです。全てを我事のように思うのは、大変だと思います。それを、全てクリアして体現しているところが素晴らしいです。
人は、ただその存在そのものが尊いに気づけば、悩みが無くなったり、症状が無くなったりすると思います。そこに気づかないうちは、いろんなことが起こると思います。
いつか、私自身が、私の中の全てにオッケー出せた時、先生にお会いしたいと思います。
幸せの探求という本は、伊藤先生の人生が語られています。治療家、施術家、人生に問題があると考える人達にお勧めです。本物です!
CW出版 TEL 03- 3342-1055 定価1000円
松久先生の松果体革命という本を読んだ。
本の中で、「地球人は、時間と空間と重力に縛られています。重力に縛られると、人間のエネルギーの本質である螺旋振動波は、地球の中心に向かって、一方向にしか向かない状態になります。実は、地球に向かって引き寄せられていくという状態が「時間」と「空間」を作っています。しかし、自分の振動数エネルギーを自由に上げることができるようになると、その方向性は、自由度を増し、時間と空間に縛られない状態を手に入れることができます。時間と空間というのは、「自分の身体が今ここにしかない」という幻想に基づいてできる概念です。「私は今いて、今以外にはいない」「私はここにいて、ここ以外にはいない」という概念は、自分という存在は”今ここにしかいない”という幻想です。素粒子のレベルでは、魂の意識エネルギーは、今にも過去にも未来にも、ここにもあそこにも自分はいて、今ここを選ばされているだけという状態です。松果体が不活性化していると、重力に縛られ、時間と空間の枠に閉じ込められます。」と書かれています。
この話を読んでそんな気がしました。私は、重力が執着であり、地球の愛かなと思っておりまして、時間もないという話も聞いておりましたので、ただ、それが、どういう風になるかなが、きっちりと説明できなかったので、この話は、凄く納得しました。
そして、本の中で、「魂にとって良い悪いは、自分の乱れたエネルギーを修正するのに、「どのような体験をしたら一番修正しやすいか?」という基準しかありません。ですから魂エネルギーの修正の観点から見たときに、どんな選択であっても、すべてが「善」の判断のもとに選ばれた状況でしかないということです。私たちは地球次元でいうところの「善」と「悪」を感じて、ストーリーの流れによって一喜一憂してしまいますが、魂エネルギーレベルでいうと、体験するものはすべて「善」なのです。」と書かれています。
この話もそうだなと思いました。善と悪を持つ人が世界を見ると、善と悪の世界が見えると思いました。
そして、もうひとつ本の中で、「自覚しない意識ですが、超潜在意識(宇宙意識)が効率よく取り込まれるためには、顕在意識と潜在意識は眠らせたほうがよいのです。今までの地球の成功哲学は、潜在意識を最大限に利用するという教えでしたが、実は、それさえも眠らせたほうがよいのです。」と書かれています。
この話もそうかなと思いました。
私の中では、この先生の話は、凄く納得しやすい感じになっていますので、いつか、是非、お会いしたと思いました。
結局のところ、みんな自身が世界を創っていると思いますので、その人の分かる範囲でしか、世界は、見えてこないと思いますので、いろんな話を聞き、実際に試してみて、ひとつ、ひとつ、その人なりに、腑に落としていくのが、大事だと思います。
(*^▽^*)
若竹さんの「おらおらでひとりいぐも」という本を読んだ。
木更津の主婦の方が、芥川賞をとったという話だったんで、是非、読んでみたかった。(私は、木更津出身)
人は、年をとると、それまでの人生を振り返って、みることがあると思う。
昔、患者さんの80代のおばあちゃんと話をした時に、ああ、そうかと思ったことがあった。
ちいっちゃい時は、ちいちゃい時の悩み、小学校、中学校、高校、成人、30代、40代、50代、60代、70代、それぞれ、その時には、その悩みがとてつもなく、大きいけれど、時間が経てば、それ程でもないなということだなと思った。
その時代の私は、その時に起きることが人生の全てなので、いっぱい、いっぱいで余裕がないから、悩んだりしていると思う。
人は、全知全能の神でないかぎり、その人の見える範囲で世界を見ている。全体は、その部分が全体の中で、どういう関係で成り立っているかが、分かっていると思うが、部分では、全体が分からない。だから、人を通して、私に気づいていく、そして、世界を広げていく。
本の中の主人公の主婦の方は、愛する夫の為に生きることにした。夫の理想の妻になることが生きる目的となった。そして、それが、主婦の方の幸せであった。(うちの両親には,是非、この姿勢をお互い持ってもらえるといいなと、老婆心ながら、思っております。笑)
その愛する夫が亡くなった時、もう一度私の人生を考えた。
本の中で、小さい頃、主人公は、母親に女を出すのは、良くないと育てられた。その時の気持ちがあったので、娘には、フリルつき服を着せた。それが、娘に後になって聞くと、嫌だったそうだが分かった。
子供の時のその感情は大人になっても、覚えている。子供の時、嫌だったことは、大人になった時、私の子供には、させたくないという気持ちが働いて、親は、子供の為と思ってする。でも、子供は、それが、嫌だったりする。親は、子供の時できなかったことを、子供に託したりしていると思う。それを、子供は、重荷に感じたりしているのだが、親は、気づかない。
親子関係に置いては、親は、子供の前では、立派な親であることが大事と思って、子に教えあげるという姿勢が多々あるのかなと思う。子を不安にさせてはいけないとか、親のメンツとか。ここで、主人公が私の小さい時は、女の子っぽい、洋服は、おばあちゃんが、ダメと言ったの、直美(主人公)は、どういうのが、いい?と聞けたらよかったかもしれない。
ただ、人生の全ての物事を全力で行うということは、大変かもしれません。
そこで、もうひとつの考え方です。例えば、酒癖の悪い父親がいるとします。それを、見て、反面教師で、お酒は、気をつけようと思った子供がいます。同じように、酒癖の悪い、大人になる子供もいると思います。(実際、どっちのタイプもいます。)
とすると、考え方としては、親は、親の思うように、子供に接する、これが、親の人生。それを、どう受け取るかは、子供の人生。と考えると、気が楽かなと思います。(虐待は、いけないと思うけど。)
アドバイスとしましては、愛から、発信する行動は、しっかり伝わります。価値観から、発信する行動は、伝わる時もありますし、伝わらない時もあります。
思いますことは、とにかく、その人が今、大事にしたいことを進めていくといいかなと思います。(*^▽^*)
昨日、みなっしーと話していて今年は、どういう年という話題になった。
みなっしーは、あっと言う間の一年で、漢字一文字でいうと、一瞬の「一」と言っていた。
私は、今年は、いろんな出会いが会ったし、出川さん好きなので、「出」だと思った。
今年の成果としては、断食35日間をして、、20代の時ぶりの80キロ台になったのは、嬉しかった。
(昔のジーパンがはけた。)
スイッチが入ると無敵モードになるのが、分かった。
振り返って見れば、あっと言う間に一年が終わろうとしている。結局、休みは、殆ど、修行か、勉強だった気がする。(たまに、山登り。)
来年は、この糞真面目な性格の私であるが、ハイテンションとか、弾けるとかが、あると、面白いなと思う。
歯を食いしばって、頑張って、弾けたいと思う。 笑
誰か、その道のプロいましたら、ご指導よろしくお願いいたします!
青木紀代美さんの「食に添う 人に添う」という本を読んだ。今回、この本を読もうと、思ったのは、送られてくるメールに、七沢さんという方が、この青木さんという人は、菩薩のような方という表現をされていたので、それならば、素晴らしい人間性を持っているかなと興味が湧いた。
青木さんのお子さんは、未熟児で生まれ、身体が弱かったので、子供の事を考えたら、食べ物と向き合う形になりました。そこで、添加物の害や、食べ物が消費者に届く仕組みあり、そこには、いろんな思惑があるのを知りました。そして、身体に良い食べ物が私達の手に届くには、どうしたらいいか仕組みを考えたそうです。
この本を読んで、人は、我が事に関係すると、真剣に向き合い、そこで、本人なりの気づきがあり、腑に落としていくんだなと思いました。
本の中で、誰かを元気づけるということは、「我を捨て、我を忘れる」ことだと思います。我を捨てるというのは、お母さんが病気の我が子のために、自分のいのちは捨ててもいいから助けてほしい、と無意識に思っているようなことでしょう。我をさておいて、自分のエネルギーを子どもに与えることでしょう。我を忘れるというのは、喜怒哀楽すべてを息子と共有し、素直に子どもに同化することでしょうか。ひたすら相手の事を考え、その人に寄り添うのです。だから、看病するときには自分の自由はありません。その人が右といったら右、左といったら左、空を飛べといったら空を飛ぶ。飛べないときは飛ぶ努力をする。「いまちょっと忙しいから」「こっちの都合もあるのよ」なんていっていたのでは、重篤な患者さんを生かすことはできません。そうではなく、ただひたすらに「イエス」をいうのです。イエスをいっぱいもらった人は不安からだんだん解放されていくのではなしのでしょうか。 と書かれています。
我を無くす事で、周りが見え、我を出す事で葛藤が生まれたりする。物事をすべて、私事という意識で捉えると、毎日が真剣になり、他人事として捉えると、私には、関係なくなる。そして、周りが他人事ばかりだと、人生がつまらなくなるのかなと思いました。
そうして、思いましたのは、結局、私の在り方が、みんなとの関わり方になると思いました。私を中心に世界がある。そして私は、世界の一部である。私という視点と、世界という視点が同じになった時、全てが分かるのかなと思います。(実際は、更に、大きな世界、更に、更に、大きな世界がある気がしますが。)
普段の生活で、添加物は身体に悪いという話を聞いて、気をつけているとします。そんな時、みんなで、ファミリーレストランで、ご飯食べて、おしゃべりしましょうということになったとします。(よく、あることだと思います。)そんな時、私は、食べないという人もいると思います。私は、添加物は、身体に悪いと思っているで、食べませんというAさんがいます。(ピシッ!)それを、聞いて、そんなの気にしなくて、いいのにと思うBさんがいます。(?)何で、和を乱すんだと思っているCさんがいます。(カチン!)私も添加物は、あまり食べたくないけど、かといって、雰囲気壊すのも、嫌だしと思っているDさんがいます。Dさんは、思いました。あっ、そうだ。お腹空いてないので、コーヒーだけにしとこう。たまには、添加物の食べ物、食べてもも、大丈夫だろうというEさんがいます。
どの生き方も、その本人の納得の生き方なら、いいと思います。もし、葛藤があるなら、本人の見えている世界と、実際が違うかもしれません。そして、その世界は、その本人が、分かっている、分かっていない関わらず、その本人が創っていると思います。
アルケミアと、ジェムレーションという本を読んだ。
そもそも、このアルケミアという本を買おうと思ったのは、いつも、メールで、送られてくる本の紹介を見て、その本のインターネット上の書評を読んだ。その時、その本の批判的な書き方をしている方がいて、それならば、アルケミアの方がいいと書かれていました。その書評を見て、この批判的精神を持った人が認めている本なら、いいのではないかと思いました。
アルケミアとは、技法の事で、ジェムレーションの本の方は、この技法を使って、人生が変わられた方の体験談が書かれています。
アルケミアは、錬金術(アルケミー)のように新しいものが生まれるよということで、そういう名前にしたそうです。
アルケミアの具体的な手順は、次の通りです。
手順1 問題という現実を定義する「という現実」自分で自分の問題を認識すること。ここが一番大事です。本の中で、問題と自分を別々に感じるというのは、逃げているということなんですね。とか、問題を認識する時には、実は、肉体に負担がかかります。問題をちゃんと認識すると、体は打撃を感じるようになっています。とか、書かかれています。
手順2 極陽を割り出す。(最良の結末を想定する。)自分が想像しうる幸福、思い通りになる幸福を、「陽」と呼びます。たいていはストリーのみですが、それに「最良の結末」を加えたものを、「極陽」と呼びます。そして実際にやってくる想定外の嬉しい結果、「思いがけない」幸福を「福」と呼びます。
手順3 極陰を割り出す。(最悪の結末を想定する。)「困っている現実」から想像しうる「最悪の結末」を想定します。これを「極陰」と呼びます。どうして極陰を出さなければいけないのか?というと、そうしないと「新しい力が生まれない」ということがあります。マイナスを排除してしまうという間違ったプラス思考が今、蔓延しているのですが、そうではないですよ、ということです。極陰と極陽を「死」をベースとして言うとしたら、「こんな目にあうなら死んだほうがましだ」というのが、極陰で、「ああ、もういつ死んでもいい」と思えるのが、極陽ですね。極陰のとらえ方は、千差万別です。
手順4 統合 統合は、体を使って行います。体内で、極陽と、極陰を同時に体感し、混じり合っていくのを感じていきます。
実際のやり方は、
フープのような輪を2つ用意する。そして、歩幅ひとつ分前に、輪を2つ並べます。
1、輪を前にして、まっすぐに立ちます。これが現状のポジションです。ここで、手順1で出した「△△という現実」の内容を唱えます。閉眼内語(目を閉じて声を出さずに頭の中で唱える)で言います。「顔はまっすぐに、眼球を動かさずに」言うのがポイントです。言う時に、眼球や身体を動かす行為は全て逃避行動ですので、これをしないようにします。
2、自分から見て左の輪の場所を「極陰」とします。両足で輪に入り、先ほど想定した極陰の内容を思い浮かべます。この時の体感をしっかり感じてください。自分の全てがダウンしてゆく感覚をチェックしてください。落ちていくような変化を感じられたらOKです。
3、一歩下がって、現状のポジションに戻ります。体を揺すったり、よそ見をしたり、今日の晩ごはん何にしようかなと考えたりした、先ほど感じた体感を体から抜いてしまうようにブレイクします。
4、次に、右の輪の場所を「極陽」とします。右の輪に両足で入り、先ほど想定した極陽の内容を思い浮かべます。この時の体感をしっかり感じてください。すべてがアップする感覚があるはずです。変化を感じられたらOKです。
5、一歩下がって、現状のポジションに戻ります。体を揺すったり、よそ見をしたり、今日の晩ごはん何にしようかなと考えたりして、先ほど感じた体感を体から抜いてしまうようにブレイクします。
6、体内で極陰と極陽を統合していきます。左足を左の輪に、右足を右の輪に入れて、立ちます。手を胸の前で合掌します。手を合わせる線も、体も、まっすぐに立ちます。左半身は「極陰」、右半身は「極陽」。異なる体感が2つ同時に起こり、体が真っ二つになるのを感じるでしょう。その体感が体の中でどうなっていくのか、感覚に意識を向けて、起こることに任せます。
7、6でしっかり味わったら、終わったと自然にわかりますので、そうなったら後ろを向き、左右の足を入れ替えます。同じく手を胸の前で合掌して統合を味わいます。
8、ご自身で、2つが合わさって終わったな、という感覚があるまで続けます。終わったと感じたら、終わりです。葛藤がなくなっているのでわかります。
手順5
ここでもう一度、最初に唱えた「△△という現実」と言ってみます。この時の体感が最初と変わって、何も感じないようになっていたら大成功。それどころか、合掌すると、「何とも言えないよい感じ」が生じます。
実は、「△△という現実」という現状把握さえ正しくできれば、認知によって発動する力で自然に解決に向かっていくんです。何もしなくてもね。ただ、統合したら超高速で現実が動くってことなんです。便利でしょう?
(私は、ドンキで、フープを買いました。1個1000円。場を設定してもいいと思います。)
と書かれています。
私は、これを読んで、その通りな気がしました。これを実践した人は、問題の認識は、自分の中にある見たくないものを見ることと言っておりました。その人自身が、その人の中にある良いと思っている事、悪いと思っている事を認めてあげる事が出来ると、それに囚われていない事になるので、新しい事が起こると思います。例えば、こういう人、嫌だなと思っている人が、その人自身、あっ、でも、私もこういう気持ちもってるなという事に気づくと、相手も許しやすいと思います。最初は、嫌な人がいて、私を嫌な気分にする。でも、本当は、嫌なものを持っている私がいるから、嫌な人が来て、嫌な気分にさせるが本当の所だと思います。
この先生は、純化という言葉を使っています。赤ちゃんの無邪気と違って、磨かれていった結果、透明度が増して獲得された無邪気と言っております。赤ちゃんは、愛の人ではありますが、確かに、みんなが赤ちゃんになると、社会が存続できない。その純化の為には、圧力が必要と言っております。炭素をぎゅーと圧縮すると、ダイヤモンドという炭素結晶になる。これは、「純化する」って意味なんです。と書かれております。
船瀬さんの未来を救う「波動医学」という本を読んだ。
この本には、人は波動で、出来ていて、臓器にそれぞれ固有周波数があるそうだ。
これが、乱れると病気との事と書いてある。
私の場合、基本的な知識がないので、波動と、周波数で、まず、どういう関係と思ってしまった。
インターネットによると、波動は、波の事で、周波数は、媒質が1秒間に往復する回数と書いてある。
媒質は、水面上は、水。音の場合は、空気。だから、ここに関与出来る人は、いろんな症状に対応出来る事になる。
しかし、そもそもの病気の原因は、体毒で、「食」と「心」から生まれます。ひとつは、代謝能力以上の食物を食べると、それは排泄しきれず、老廃物として身体に溜ります。これが体毒の正体です。もうひとつは、苦悩もアドレナリンなど毒性ホルモンを発生させます。これも体毒になります。と書かれております。
船瀬さんがお勧めするやり方は、根本原因が普段の生活による体毒だから、症状に対して波動療法で、症状をしずめ、断食療法で、体毒を排毒し、体質改善をして、根治をはかるのがよいのでは、との事だそうです。
本の中には、いろいろな治療法が書かれおります。
また、闇の組織というのも書かれおります。この闇の組織は、自分達の利益に関係する事になると、強硬手段に出るそうです。
だから、私達が、一般的には、治るという事が難しいガンや、難病を、もし、治せるというと、身に危険があるかもしれませんが、都市伝説的にとらえていれば、関わらないと思います。
日本では、医療機器として、認められていない波動の機械が、ロシアでは、普通に認められている。(ロシアでは、国をあげて波動医学に取り組んでいる。)
今回の感想としましては、暴飲暴食、不健康という生活をして、それを、全て帳消しにする夢の機械は、なく、あくまでも、病気になった時、その人が人生を振り返るチャンスを頂ける可能性の為の機械であり、あくまでも、今の現状は、本人が創っているので、それに気づく事だと思います。闇の組織に関しましては、裏で、世界を牛耳っているというというのが、もし、ありましたら、これは、単に、既得権益という事だけでなく、人を支配したいという強い信念をもった集団かなと思いますので、手強いなと思います。
世の中、いろんな情報があって、それが、常識と呼ばれたり、非常識と呼ばれたり、すると思いますが、あくまでも、本人の頭で、考えて、納得して、答えを出す事が大事だと思います。そうすると、人のせいにしなくて、後悔ないと思います。( ^ω^ )
成田新十郎先生の「円和の合氣道」という本を読んだ。
本の中で、成田先生は、「私が想像するに、先生は苦悩の末に武道認識の大転換をされ、武道の根源に自然の理としての球理を唯一のものとして捉えて、それが母体となって総ての武道を生み出して行くという、 創造武 を提唱されたのでしょう。そして武道というものも特別の分野ではなく、人間生活のすべての分野と共通の自然現象の一環であり、それらが自然世界を其の物たらしめている真理に則っているものであるという信念から、その本質は調和であると位置づけられたのではないでしょうか。調和を乱せば自然は破滅します。自然は、その構成要素の全部が其々別々ではなく、関連しあってもともと一体の存在なのでありましょう。」と師匠の平井先生の事を書かれております。
私達は、普段、誰かと相対した時、私達が認識出来ることでしか、物事を考えらませんが、認識出来ないけれども、そこに、場が出来ているようです。
以前から、考えていたのは、例えば、赤ちゃんが攻撃してきても、怖くありません。しかし、空手の人の攻撃や、武術の人の攻撃は、怖いです。私の場合は、痛いというのが、ダメです。対処できないからです。でも、空手の人は、空手に対処出来、武術の人は、武術に対処出来ると思います。(いろんなレベルは、あると思いますが。)
だから、私の身体が、鋼鉄で、攻撃が全然効かないとか、相手の攻撃を無力化出来ればいいなと思っていました。
この本を読んで気づきましたのは、この考えは、相手より、力が上回るから、対応出来るというものだなと思いました。価値観の世界です。どっちが上か、同じ土俵にのっていました。
そうではなくて、成田先生の場合は、みんなが信頼する人(親友、親、師匠、先生等)との間にある信頼関係を結ぶのだなと思いました。
だから、敵意をもって、のぞんできた相手は、相手本人は、そういうつもりはないのに、勝手に信頼関係を結ばれているので、攻撃が出来ない状態になっているということだと思いました。
私自身、気づきましたのは、攻撃してくる相手に対して、我が事のように思えていなかったのだなと思いました。(この時に、我が出ている。)
世の中には、成田先生のように、ここまで追究されている方もいらっしゃるんだなと思いました。
まだまだ、未熟な私は、出来る範囲で、コツコツ頑張らなきゃいけないと思いました。( ^ω^ )
無元塾の白石先生、主催で、9月18日に講習会があるみたいです。ご興味ある方は、問い合わせてみてください。
船瀬さんの「できる男は超小食」という本を読んだ。
つい、できる男というふうに書いてあると、手にとってしまう。
内容は、超小食にすると、元気になりますよということが書かれている。
今は、芸能人の人でも、一日一食の人が多い。
小さい頃から、親に、ご飯は、三食しっかり摂りなさいとか、残さず食べなさいとか、言われてきたりしている。
そうすると、それが当たり前になっていたりする。
六年ぐらい前に、実家に帰って、ご飯を食べているときに、お代わりをしたら、父親に、ダメと言われて、お前は、そんなに肥っているから、ダメなんだと人格を否定されたときは、流石に、頭にきて、そのまま家に帰ったことがあった。(実際は、別の理由だったかもしれない。?)父親としては、息子の身体を心配してのことだと思うけれど。
そんな感じで、小さい頃からの食習慣がみんなあると、思う。
それが、習慣になっているので、断食して、飢餓状態にした方が身体が健康になると言われても、なかなかそうできない。
習慣とは、いつもやってしまう行動。なぜ、それをしてしまうのか?それが出来てしまう環境があると思う。だから、ひとつの方法は、私から行動する権利を奪うというのがあると思う。他には、その習慣を嫌いになってしまうか、興味がなくなるというのがあると思う。別の私にとって、いい習慣をすることで、悪い習慣をしなくなるというのも、あると思う。
私が以前やって出来るようになったことは、私は、昔から、人の為には、頑張れるけど、私自身の為には頑張れなくなるというのがあった。それを、こう考えた。相手に対して、私を大事にしない人が相手の為にするのと、私を大事にする人が相手の為にするのでは、効果が違うと思った。
今回も、その考えでいくとすると、今のままで、患者さんに接するのと、超小食にして、凄まじく元気になって、患者さんに接するのでは、効果が違うという感じがする。
後は、最近、考えている、今まで物事に取り組むとき、努力というやり方をしていたが、これを、楽しくやるにはどうしたらいいのだろうと思った。
今、書いていて、気づいたが、苦手なことや、きついことと、向き合うときは、努力しなきゃと思っている。
努力しなきゃは、頑張るということである。無理して、我慢することである。いろんな師匠達を見ていると、最初は、凄い努力をしているなと思った。そんな師匠達の努力と比べると、私など、まだまだと思ったこともあった。が、質問して、聞いてみると、師匠達の心情は、楽しいである。
だから、今回のケースに取り組む場合は、まず、ベースに、患者さんや、人と向き合うとき、私は、出来るだけ最高の状態で、向き合いたい、を持っている。その為の超小食である。かと、いって、松岡さんの人生は、ずーっと修行している感じがするので、松岡さんの中にある、苦手なこと、きついと思っていることに配慮して、出来るだけ、楽しさを早く感じられるように、接してあげて、やり易い行動を提示できるのがいいのかなと思う。
三食の人が一食にするのは、きついと思う。でも、一食の人は、その良さを、凄く知っている。
三食の人と、一食の人は、意識が違うのですが、三食の人は、三食の意識でしか、物事を考えられない。
たぶん、三食の人は、一食になったとき、初めて、ああ、こういうことかと実感すると思う。