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院長 | 松岡 良一 |
本の中に、アイキモードという言葉が出てくる。小磯さんは、会長にかけられたり、会長のアイキモードと、お手合せされている。その中でも、一番のアイキモードが、高荻さんとの自主稽古の時は、まさに、武神が舞い降りたような状態と書かれている。
小磯さんが、会長から、「当たってもええねん。『受けよう』という気持ちを捨てて、『迎え入れる』でやる。そうすると、攻撃した相手の反応も狂うし、技も決まる。」と言葉や、
炭粉先生からは、「合気とはある意味、全く相手と歩調を合わせないことで相手をギョッとさせる行為のことです。人同士が格闘する時、自由に攻防しているつもりでも、実はお互いに『格闘する』という約束をしっかり守っているのです。それを舞いなどの別の行為にすり替えることで、相手がよく見えてきたり、スローに見えてきたりする現象が生じます。何せ、『格闘する』約束を反故にするのですから。約束事とはつまるところ、脳が『~しなければならない』という思考のフィルターを通すことですから、その分遅くなるのです。」要するに、受けようとした時点で筋力の反応が起きる。そうではなく、迎い入れることで別の動きが身体の中で始まるのだ。そのような体験がいきなりのアイキモードにつながったのであろう。以降、何度かこの現象を体験した。攻撃してくる相手にこちらは闘う心一切無し。にもかかわらず、相手の動きが事前に見えて速く反応できる。と小磯さんは、書かれている。
ベンジャミン・リベットのマインド・タイムという本の中で、認識に、0・5秒かかるというのがあります。つまり、みんなが今と思った事は、0・5秒後の過去を、今と認識している事になります。時間の概念は、その人の意識によって、様々だと思いますが、一般的には、過去があり、現在があり、未来があると考えいる人が多いと思います。これを、未来は、少し経つと、現在になって、もう少し経つと、過去になると考えてみます。川に例えると、川の上流が、未来、中流が、現在、下流が過去です。みんなが思っている今は、本当は、過去なので、結果は、決まっています。その決まった過去を、今と認識しています。つい、先日、懇意にさせて頂いている行徳の先生と、話していて、みんなは、今と思っている、この過去にアプローチしているので、上手くいかないですよね。という話が話題にのぼりました。川の下流の過去より、上の中流に、石を置くことが出来れば、みんなが現在と思っている今(本当は過去)を変える事が出来るのかなと思います。(別に事象に対して、囚われがなければ、起こる事が決まっていても、大丈夫ですが。)
高荻さんは、第三の合気「合気モード」として、こう書かれている。
合気修行者が「合気モード」と呼ぶ「無念無想の境地」がそれである。筆舌尽くしがたい世界なのだが、私は、氣空術を学ぶことによって、幸運にもその初門に至ることができた。いったん合気モードに至れば正に自在。余計なことは何も思考する必要はなく、ただ触れるだけで相手は崩れ倒れていくのだ。技術を捨て、思考を捨て、自分自身すら意識に登らせることなく、全てあるがまま。水が流れるように動くだけで目前の敵はことごとく敵意を失っていく。たとえるとするなら、正に「天上天下唯我独尊」の境地である。
高荻さんは、氣空術を学び、氣空術の素晴らしさを知り、吉彦さんからは、冠光寺の愛魂上げをしてもらい、上がる体験をされ、下村さんとの自主稽古で、愛魂を体験されました。そこで、愛に対する感度が上がったのかなと思いました。そうして、炭粉先生との痛み稽古で、炭粉先生の想いを感じ捉え、会長や炭粉先生が掴んでいる感覚を体験されたのかなと思います。更に、下山さん、谷内さんとの自主稽古の自由攻防で、正しく、炭粉先生の痛み稽古の炭粉先生の立場になり、合気モードが発動されたのかなと思います。
愛って、男女の愛とか、親子の愛とか、動物の愛とか、無償の愛とか、いろんな愛があると思います。
無償の愛は、禅の自分も他人もなく同じように考えられる境地と同じだと思います。
私的に分かるのは、我欲がないと、相手とぶつかるべきものがないので、その人と、対峙したとき、相手は、愛を感じるようです。
高荻さんが、こう書かれている。
実際の攻防戦に於いては、我々は常に相手の思考や動作に心が捕らわれてしまう。視野は狭くなり、呼吸は浅くなる。恐怖故に相手から目を離すことも、心を解放することもできなくなる。所謂、固まった状態になってしまうのだ。正に相手に(環境に)呪縛されたかのような状態に陥りやすくなる。剣術の世界ではこのような膠着状態を「合気」と呼び、避けるべき状態であると教示してきた。対して、この状態から離脱することができれば、初めて真の自由を得、心身ともに自在に動けるようになる。人間の魂は歓喜し、まるで舞を踊るかの如く自然に開放されていくのだ。受けはどれほど意識して攻め込もうとも、こちら側に影響を及ぼすことはできない。その状態は己の外で発生する事象全てに捕らわれることを嫌い、多くの信号を無(零)に帰してしまうからだ。逆に仕手側は、受けの身体に触れるだけで「かけるべき合気」がは発動する。受けにしてみれば、触れられた箇所からは、護身に供する十分な情報が伝わったこない。また、どの箇所にどのように質量が伝達されているかをいつものように察知することができなくなる。仕手の不思議な状態に気が付いたときには、時既に遅く、バランスを立て直そうとしても、もう間に合わないのだ。既に体の軸はゆがめられ、もはや立っていることができなくなるのである。これこそ「かけるべき合気」ではないか。この「観の目」の境地を得て初めて、「かけるべき合気」と「避けるべき合気」の矛盾がことごとく消失するのである。
高荻さんと、小磯さんは、今まで、数々の実戦を積んでこられ、合気モードを知っている会長と、炭粉先生に出会い、お二人もその境地に至る事ができたのかなと思います。
合気モード、いつか、是非体感したいと思います。よろしくお願いします!(*´∀`*)
今回、氣空の拳を読みまして、この本に出ているみなさんの熱い想いが、とってもいいなと思いました。
やっぱり、真剣に追い求めるその姿勢に、ちゃんと、結果はついてくるんですね。
ありがとうございました。
松岡良一