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院長 | 松岡 良一 |
Blog記事一覧 > 腰痛、肩こり。 | 松岡整骨院 - Part 9の記事一覧
先生の言葉。
「問いかけに答えはないかもしれないが、問いかけからの解放がある。」
これは、問題として、捉える私がいるという事だと思います。(松ちゃん。)
変容が起こると、実は、病気って、消えるんだす。簡単な話、神経質だったら、いろんな事とか、気になりますよね。でも、神経質でなくなったら、図太くなるでしょう?ということなんです。(笑)
「自分」をとりまく様々な「問題」をすべて変えるよりも、「それを問題としてとらえしまう自分」を変えてしまったほうが、手っ取り早い、というのも理由のひとつですが、自分自身を0化しておかないと出会うクライアントさん自体に自分の問題が反映してしまったり、クライアントさんそのものが、自分の問題となってしまったり、クライアントさんそのものが、自分の問題となってしまったりすることがあるので、社会の構成員としてのセラピストの責任を果たすために、全人的0化、少なくともその「努力」を必須としています。
この姿勢は、大事ですね。つい、私の見方で、相手を見てしまう! (松ちゃん。)
ゼロになったら、いのちだけが残るわけなんです。いのちというのは、躍動している。ダイナミズムですね。
めちゃめちゃ生きる、生命力があふれていく。
真空にガンマ線を当てると物質が飛び出してくる。
空 (松ちゃん。)
今、皆さんが感じている現実圧(問題)っていうのは、社会から来る淘汰圧です。この圧をむしろ、エネルギーに変えていく、そうすると新しい形態、新しい進化をしていきます。進化は何にも左右されないものを求めているので、ゼロ化は生命力が求めている方向ということになります。
ということは、私達は、社会が悪いといいながら、知らずに社会の求める私達でなければ、いけないと思っている。そりやぁ、私達の中に相反する二つの意識を持てば、葛藤するでしょう!(松ちゃん。)
僕だけ出来ても意味がない。
死ぬ気になると出来るようになる。
でも物理学の法則っていうのは、本当に平等なので、器用さは、関係ないですね。その原理原則に従って動けば、どなたでも、再現できるのです。
いいっすね。(松ちゃん。)
もうひとつ、再現性を得るために、とても大切にしていること。それが、「仮説を立てる、実験する、検証する」というプロセスです。
物事がある理屈でうまくいったとしても、さらに、「それは部分的な真実なのか」 「全体的な真実なのか」という部分についても検証します。
この姿勢、素晴らしい! (松ちゃん。)
私たちの心というのは、「されたい」というソフトが、一番大元の‶基本ソフト″として入っています。これはあって当然のもの。ただ、弱みとしても働きます。煩悩の一番の最初が「〇〇されたい」です。あとは、たいしたことがない。「〇〇されたい」、これは個人的な渇望のことですが、お釈迦さまはこれを「渇愛」と言われた。渇愛があると六道を輪廻してしまうよ、だからそこから抜けてしまおう、という一つの概念を提示しているですね。自分で身につけた覚えはないのに、自分の行動のすべてが、自分の「されたい」に制約されていく。ものを考える主体の自分が「〇〇されたい」に覆われているという基本ソフトがあって、これが勝手に起動しているわけですよね。私たち成人の中に、幼児がいるイメージ。これに左右されていることを、まず知ることです。でも、この「〇〇されたい」は絶対不変のものではないんです。わかれば、変えられます。認知の光を当てていくと、脳が可能な限り自動修正をやってくれますからね。そういうもののすべてに、知性の光を当てちゃおう、ということなんです。「知」こそ、私たち人類の最大の特性なんですから。
この「されたい」という言葉の意味がなかなかわかりませんでした。(松ちゃん。)
したいなら、わかるけど、されたいって、どういう意味?と思いました。
インターネットで、渇愛を調べました。①欲愛ー肉体の快楽を求める欲望のこと。②有愛ー生きることへの執着、死にたくないという欲望。③無有愛ー無になりたい、死にたいという欲望。
この意味なら、わかるけど、「されたい」だと、ピンときませんでした。そして、ふと、浮かんだのは、不足というのがあると、その不足している隙間を埋めようとして、「されたい」が起こると思いました。だから、不足がなくなると、この感覚がわからなくなるんだと思いました。
このアルケミアという技法は、今、認識している私ということがわかることで、今の現状を私自身がしっかり把握することで、今の現状から解放され、新しいことが起きる。そして、また、その新しい現状を把握することで、また、新しいことが起きるの繰り返しだと思います。
この先生は、その人の核の部分が見えていて、そこから、派生する意識、そして、また、そこから、派生する意識がわかるのかなと思います。
私達は、人生を通して、今の私(今の意識)に気づき、そして、また、今の私に気づいていく。って、感じだと思います。
この先生は、全人格ゼロ化といっておられます。ゼロになれば、なるほど、いろんなことがわかり、いろんなことを優しさで包んであげれると思います。素晴らしい考え方だと思います。(^◇^)
昔、整骨業界に入ってばかりの時、患者さんとの話で、宗教、政治、プロ野球の話題は、ダメと言われた。
その話題で、患者さんを、不快にさせたり、トラブルになるのを、未然に防ぐ為であった。その人の大事にしているものは、人によって違い、そこを侵されるのは、許しがたいものなので、そこで感情が爆発したりする。
ある方が、私に、その人の信じているものを話されてきた。最初、私は、私に第三者的意見を求めているのかと思っていた。(その客観的な姿勢がいいなと思った。)だから、特に興味はなかったが、その話を聞いた。そうして、分かったのは、その方にとっていいものを、私に伝えたいという気持ちだった。私は、昔から、物事の本質とか、根本というものは、全てを包括すると思っている。だから、そういう話は、好きだ。その私に、そういう話をするのであれば、私の分からない事でないと、興味が沸かない。その時、私が思ったのは、どうしても、教えとか、信じるものがあると、それに、妄信してしまう場合もあり、他の考えが、浮かばなくなるんだなと思った。だから、指導者という立場の人は、気をつけないと、人をコントロールしてしまう。と、その時は、思った。私の中には、全てを受け入れたいと思う気持ちを持っているが、妄信の人には、話が通じないなと思った。拒絶というのは、好きではないが、しょうがないかと思った。その方が、今日、朝、たまたま会った時に、「先生、本と、CD、読まれました?」と聞かれた。(春に、会った時渡されたそれを、今度来たら、そのまま返そうと思っていた。)いや、必要ないので。大丈夫です。と言ったが、とりあえず、本を読み、CDを聴いてみた。すると、この教えは、本質、根本を言っている感じがした。自分の教え以外に、対して、排他的な感じでは、なかった。一番いいのは、全て分かっているのが、理想だけれど、みんなそれぞれ、それぞれの位置でしか物事を見ていないので、であれば、この方自身のアプローチが、人は、いろんな考えを持っている、そして、興味の範囲も違う、今この先生は、私の興味のあるここには、興味ないんだという考えが持てれば、先生が興味を持たれた時に、声かけてみようとなるのではないのかなと思う事が出来れば、と思う。
こだわりというのがある。そのこだわりで、人に迷惑かけると相手からは、ワガママと思われる。でも、迷惑かけても、気にしない人にとっては、私らしく生きている。そのこだわりで、尊敬されるも人いる。そのこだわりで、相手から、あの人は、頑固だからと言われる人がいる。でも、その仕事ぶりが認められている人もいる。ただ、単に頑固でダメだなと言われる人もいる。大事なのは、どういう私でいたいかである。どんな生き方でも、その人がその生き方に納得していれば、その人にとっては、充実した生き方となると思う。
今年も、残り、後、一ヶ月半になりましたが、頑張っていきましょう!
同じ物を見ても、好きという人と嫌いという人がいる。
この二人がそのまま話しても、私は、好き、私は、嫌いで話が終わってしまうと思う。
この二人が、今までの人生をお互い話をし、それぞれの人生を想う事が出来れば、この好きという感情、この嫌いという感情が変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。でも、私は、この物を好きだけど、あなたが、嫌いという気持ちも認められるかもしれない。
信頼関係のある仲での勝負は、お互いに、プラスに働くと思う。
価値観と価値観のぶつかり合いの勝負は、なんでもありなので、様々な感情が出てくると思う。
人と人の出会いは、心地良かったり、気分を害したり、新しい世界を教えてくれたり、いろいろあると思うが、そこで、気づく事があると思う。
昔、ある先生がいて、短気なおじいちゃん先生によく怒られていた。(私も昔は、よく怒られていました。)その一場面を見てみると、どうやら、ゴミが溜まっているに、捨ててなくて、怒られている。その先生にアドバイスした。おじいちゃん先生がどのくらいゴミが溜まったら、捨てなけきゃいけないのか、その感覚を掴む。6割りなのか、7割なのか。気分なのか。また、一見すると、おじいちゃん先生が強くて、怒られている先生が弱者な感じがするけど、おじちゃん先生は、先生の行動に左右されているので、わざともっと、もたもたすると、おじいちゃん先生は、怒りが強くなるという話をした。このおじいちゃん先生は、この先生を怒れば、怒る程、周りに嫌われていくというのが分かっていなかった。(因果応報)このただ、自分の気持ちのままに生きるという反応の人生を送っていると、本人の知らない所で損をしていると思う。(短気は、損気。)
生き方は、いろんな生き方があると思います。ワガママは嫌だなと思う人は、そういう生き方をすればいいと思いますし、自分の思い通りに生きるという人は、そういう生き方をすればいいと思いますし、どう生きるのが、その人にとって、一番納得出来るかを、人生を通して、学んでいくのかなと思います。
物事は、気づけば、気づくだけ、いろんな事が楽になると思います。( ^ω^ )
日曜日に、台風の中、自由が丘に行った。(雨、風、凄かった。)
秋山先生、吉野先生、飛田先生のコラボ講演会があった。
今回の目的は、不食の秋山先生に、是非、一度会ってみたいと思っての事だった。
参加された方には、秋山先生のコーヒーが振舞われた。
お代わりした。(次の日のトイレが違った。)
講演会の話で、お坊さんのお友達がお坊さんを心配して連れてきた。
このお坊さんは、人の為に、とにかく、身を粉にして頑張り過ぎているという事だった。
そのお坊さんに、対して、まず、自分が幸せにならないといけないと話されていました。
身を捨てて相手の為にというと、日本人的には、素晴らしいという感じがしますが、身を捨てて相手の為に頑張っている時に、素晴らしいと思われる人と、心配される人がいます。
愛 感謝 ありがとう という言葉が出ました。
確かに、愛 素晴らしい! 感謝! 素晴らしい! ありがとう! 素晴らしい!と思います。
この時、愛でなければならない! 感謝しなければならない! ありがとうと思わなければならない!と思うのであれば、何か無理してる感じがします。この無理している緊張があると、心配されるのかなと思います。
只管打座という言葉があります。ただそのものに、なるとか、我を無くして管になるとかと捉えている人もいると思います。ここで、もうひとつ気づきます事は、我を無くしてと言った時点で、差別しているので、そこに我があるという事になります。実際は、只管打座の意味が分かっている人は我を分けていないと思います。
人によって、我という捉え方が違うので、よく分からなくなるかもしれません。
吉野先生は、我をワガママとあるがままと話しておりました。
私的には、我を制限された考え方と思っております。分かりやすい我は、ワガママですが、ルール、法律、道徳、倫理、それが、正しいと思った時点で、我と思っております。ただ、制限された考え方が悪いというのではなく、今の私だと、枠が無いなと思っていたら、あっ、枠があったという感じです。
磯さんという方が飛び入りで、参加されました。動物は、本能のままに生きています。自然の中で生きています。という話をされました。動物の本能のままに生きているは、その生き方で、調和がとれている。また、違う言い方をしますと、全体の中で、調和はとれるように、無意識に動かされているという意味だと思います。ここに、関係する話として、吉野先生は、人は、無意識に動かされるのを、拒める、自由意思があると話されておりました。磯さんは、具体的な話として、怒りが出た時は、ただ、怒りにまかせて怒るのではなく、いつものパターンをテイクアウトすると言い方をされていました。本来、そのままやると、怒りのままですが、その怒りに気づいて回避した。怒れるけど、怒らない。我慢した。これが、創造をした事になるそうです。確かに、怒りの場を違う場に変えていますね。どこかの場面で、お前は、動物のように本能のままだなと言われたり、出くわす事があるかもしれませんが、動物の本能のままには、調和がとれています。人が本能のままにと言われた時は、制限された考えで、相手と、全体を見ているから、軋轢が生まれます。だから、人の場合は、流れのままの世界で、調和の世界いる事も出来るし、拒んで、葛藤を楽しむ事も出来ます。この葛藤の状況を相手が創っていると思うか、私が創っていると思うかで、全然違うと思います。
愛とか、我とか、人によって、捉え方が違いますが、普段の生活の中で、ひとつ、ひとつ、腑に落とすをやっていくと、どんどん受け入れられる事が多くなっていきます。是非、やってみてください。
個人的には、帰りの電車の中で、吉野先生ともう一人の方と乗っていた時、先生が、もう一人の方に、「松岡先生は、松岡先生の周りには、動物が集まる。そんな愛。」と言ってくれました。これが、嬉しかったです。昔、マガジンで、ショウグンという漫画があり、その主人公が着ているものは、ボロボロなのですが、公園で、公園にいる鳥たちが肩にのったり、周りに動物とか、集まってきている場面がありました。こんな風になると嬉しいなと思っていました。最近では、虫が寄ってくる事は、あります。(悪い虫では、ありません。笑)
この言葉を聞いて、流石!吉野先生!よく、私の心を分かっていらっしゃると思いました。これからも、不束者ですが、よろしくお願い致します!( ^ω^ )