所在地 | 〒272-0133 千葉県 市川市 行徳駅前2-22-2高橋ビル1F |
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院長 | 松岡 良一 |
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日曜日と月曜日に鳳凰三山に山登りに行ってきた。
初日5時間30分、二日目8時間。
今回の課題は、いつも山登りに行った日は、その日のうちに、水風呂に入って熱くなった身体を冷やして、身体の快復をを行っているが、
それが、使えない事だ。
初日の最初の作戦は、いかに太腿の筋肉を疲れさせずに、太腿のパワーを温存させるかように考えて登った。
結局、最後の方は、みんなのペースに少しでも、合わせる為、太腿の筋肉を使ってしまったが。
この日は、鳳凰小屋という山小屋に泊まり、夜ご飯は、カレーだった。(おかわりして、2杯食べた。)
印象的だったのは、ここで働く人の眼が、キラキラしていた事だ。(やはり、好きな事をしている人の表情は、素晴らしい!)
食堂で、女性で、一人で、来られている人が、いて、仲間が、話しかけていたが、まだ、一人で山登りは、出来ないので、凄いなと思った。
二日目は、朝3時に起き、4時に出発し、2400メートルの鳳凰小屋から、地蔵岳(2764メートル)を登り、次に、観音岳(2840メートル)
その次に薬師岳(2780メートル)を登り、そこから標高差1630メートルを降りて、青木鉱泉(1150メートル)まで、8時間かけて歩いた。
とっても、ハードで、最後の2時間30分ぐらいは、殆ど体力を使い果たした後の状態で、歩いた。
この時、身体は、ボロボロだったが、気持ちは、まだ行ける感じだった。
昔、柔道の練習をして、非常に疲れて、総武線の電車で、座りこんでしまった時が、あったが、その時、ランナーズハイという感じの
凄い高揚感を感じた、もう少しで、それに、近い感じになりそうだった。
今回の山登りで、リーダーは、太腿の肉離れを起こし、もう一人の先輩は、膝が痛くなり、私のメガネは、真っ二つになり、(修理に出した。)
いろんな事が、起きたが、山登りをしていると、普段の生活では、きついと感じる事がない、(この意味は、大きい!)
登っている時は、ただ登るという事だけに、没頭している。(これが、癒しになる。)
現代社会は、ストレス社会と言われるが、ストレスは、結局自分が作っているので、こだわりが、多い人ほどストレスが多くなる。
ストレスを、相手や、状況や、自分以外の性と思う人は、とにかく、身体を鍛えてそれに、負けないようにするというのがいいと思う。
身体が、強いとストレスに耐える事が出来る。
ストレスを自分が、作っていると考える事が出来る人は、今の感情が、どういう価値観によって起きたか、意識してみるとよいと思う。
価値観は、その人が、親や、時代や、地域や、いろんな影響を受けてつくりあげたものなので、その人にとっては、正しい。
ここで、大事なのは、どちらが、正しいか、正しくないか、ではなく価値観の違うもの同士が、コミニケーションを取ることで、
お互いの世界を広げる事だと思う。(効果的なやり方については、研究中。)
よく思うのは、知らない事を知ると、それだけで、世界がぐっと、広がる。
物事には、表や、裏や、いろんな面があると思う。
いろんな面を見つける事で、その物事の深さが、増していくと思う。
であるならば、ひとつの物事に対してそこに正反対の意味が、同時に存在することを認めることが、出来れば世界が広がると思う。
現在の所、表や裏は、一方だけでは、存在できないという理解しか出来ていません。
今、思ったのは、そもそも、物事をひとつの見方で、とらえるから、そうみえるだけなのかもしれない。
ひとつの物事を、表を見ている人が、裏を見ている人と話をしているので、話が噛み合わないだけだと思う。
みんなの意見を全て正しいとして、統合していく方法は、どうだろうか?
いろんな視点を持つ事で、分かりあえる。
本質を探る。(いろんな考え方が、あるのは、それぞれが経験してきた事によって観念が、出来上がっているので、
その本質は、何かを探ると、みんな同じ所に行き着くのではないか。)
私は、昔から、バランスとか、調和という事が、好きである。
個人レベルでは、調和が、崩れると、病気。
社会レベルでは、調和が、崩れると、人間関係が、きつい。
地球レベルでは、調和が、崩れると、自然災害、人災。
最初は、個人レベルで、調和が、取れるようにして、段々上げていく。
知らずに個人レベルで、ある部分が、成長しているかもしれない、すると、そこに今まで違って不均衡が生まれる。
その不均衡を調和の状態にする為に、他の部分が、成長しなければ、ならない。
調和と混乱は、成長する為に必要な事かもしれない。
安定と不安定。
多くの人は、安定を望むと思う。
実際は、安定とは、本人と周りが、成長しない状態の中でしか成立しないと思う。
だから、夫婦、家族は、お互いが成長する為に努力しないと、どんどんズレていくと、
小学校の通知表で、2が多かった私は、思う。(父親に拳骨をもらった記憶有り。)
とにかく、自分の人生は、自分の思う通り生きるのが、いいと思う。
ただ、いろんなしがらみが、あると、思うので、少しづつ、自分のペースで、行けばもっと、人生が生きやすくなるんじゃないかと思う。
人は、自分の興味あるものに、反応する。
私だと、山登り、スーパー銭湯、治療というキーワードに特に反応する。
例えば、ラジオから山の話が、聞こえたり、電車で、山登りの格好をしている人がいたり、
患者さんから、山の話を聞いたりすると、すぐ反応する。
ということは、逆にいうと、自分の知ってもらいたい事が、ある時
それを、知ってもらう為には、それが伝わるようにしなければならない。
これが、情報発信である。
何を伝えたいのか?
何が出来るのか?
どういう気持ちで臨んでいるのか?
これが、興味を持った人に、伝わると、その伝わった人が、行動を起こすと思う。
みんな自分の好きなものに対しては、貪欲だと思う。
また、それに対しての執着が、強いので、苦にならない。
人によって、物事の興味度、理解度が、あるので、その人に合った言葉で、説明してあげると伝わり易いと思う。
人は、みな、いろんなコミュニティーに、所属している。
家族だったり、会社だったり、地域だったり、サークルだったり、いろいろあると思う。
会社では、社長で、地域では、地元の名士で、サークルでは、リーダーで、家族では、奥さんに頭の上がらない亭主とか。
人は人との関係の中で、自分のキャラクターが、決まってくる。
人は、個々で、生きているのでは、なく、人との関係の中で、自分の役割を決めていく。
だからある人にみせる一面と、別の人にみせる一面は、違うのだが、どちらも、本人である。
人は人との間で磨かれ、成長したりするが、変化を望むなら、のんびりしたコミュニティーより、自分にとって、厳しいコミュニティーの方がいい。
今回参加する、気合の入った合宿で、魂の揺さぶられる体験が、出来ると、意識レベルを上げる事が、出来ると思う。
時間の流れは、過去、現在、未来と思っている人が、多い。
だから、現在は、過去が、あってこそ、存在していて、未来は、現在どうするかで決まる。
と思っている。
また、別の人は、未来、現在、過去と時間が、流れていて、未来から流れてくるものを、
どれを選択するかで、現在が決まり、それが、少し経つと過去になると考える。
最初の方の考え方で、現在は、過去の積み重ねで、出来上がっていると考え、
例えば、現在が、不幸だと、未来は、現在の積み重ねなので、これからも、不幸と思ってしまう。
後の方の考えだと、あくまで、選択なので、
自分にとって、幸せか、不幸を選択すれば、よいだけである。
今まで、不幸でも、幸せの方を、選択すれば、人生は、一変する。
実際は、不幸な考え方の積み重ねをしているので、不幸を選択してしまってる。
だから、今の状況が、不幸だとしても、幸せな考え方の積み重ねをすれば、
状況も、幸せになると思う。
本来は、幸せも、不幸も、そういう状況があるわけではなく、本人が、そう思うだけであるが、
この時代の日本の人の一般的な人の考える幸せ、不幸の状況自体も、本人次第だと思う。
私は、もしかすると、過去、現在、未来は、それぞれ、存在していて、
その時代で、頑張れば、互いに影響しあっているのでは、ないかと想像している。
こう考えると、どの時代でも、それが、他に影響及ぼすので、その時代、その瞬間を
大事に生きるのが、大切ではないかと思う。
明日から、苗場山の山登りに行く!
楽しんでこようと思う。
今の状況は、全て自分の意識が、創り出している。
求めると、アンテナが立つ。
アンテナが、立つと、自分の求めたものに、出会うことが、出来る。
ただ、その時に、準備が、出来ていないと、せっかく、出会っても、関わる事が、出来ない。
準備とは、普段から、いつ出会っても、よいように、努力する事だと思う。
よいものに、出会った、でも、お金がない、時間がない、体力がない、理解力がない、根性がない、
昔から、夢のような事ばかり、思っていた。
ただ、思うだけで、行動をしていなかった。
努力をして、行動すると、そこに可能性が、広がった。
また、努力をすると、そこにまた、可能性が、広がった。
また、また、努力をすると、そこに、可能性が、広がった。
いい気に、なって天狗になると、だいぶ、落っこちてしまった。
また、努力をすると、復活した。
また、また、努力をすると、そこに、可能性が、広がった。
今、夢に近づいている。
価値、たまに、考えたりする。
世の中には、多くの価値観が、あると、思う。
この人達に、どういうサービス、どういう人が、合うのか?
それが、サービス(商品)であるなら、例えば、ボールペンで、考えると、値段、性能(書き心地)、デザイン、色、触感、重量感、
みんなが、持っているから等、
ひとつの商品に、多くの価値を、持たせれば、地域性とか、そんなに、考えなくてもよいと思う。
これが、人であるなら、例えば、男性で、考えると、かっこいい、男らしい、強い、かわいい、頭が良い、優しい、真面目等、
いろんな価値を持つ人ほど、魅力的な人になると思う。
私は、元々、小さい頃の夢は、警察官になりたいぐらいだったので、正義が、好きで、悪が、嫌いだった。
それが、頭が、良い人、悪い人、お金が、ある人、ない人、優しい人、意地の悪い人等、いろんな人を見るうちに、
世の中には、いろんな人がいて、その人自身が、みんな自分が、正しいと思っている、様々な価値観を、持っているな、
ただ、それを、自分が、正しいと思い押し付けるのは、いけないなと思った。
と言いながら、押し付ける相手に、感情が、動くのが、まだまだですが、これが、うまく出来ると人間的に成長するのですが。
何が、正義なのか、悪なのか、と考えた時、法律、倫理、時代、国、人、で、違うと思います。
昔、ガソリンスタンドで、深夜、働いていた時、外車に乗っている人は、殆ど横柄な人でした。(深夜というのも、あるかもしれません。)
この時、外車に乗っている人は、ダメだと、偏見を持ってましたが、そのうち考えが、変わりました。
外車に乗っているという事は、お金を稼いでいると、(ぼんぼんもいると思いますが。)
お金を稼いでいるという事は、その人の所で働いている人や、お客さんには、貢献している。
その対価として、お金を貰っている。
私の見る、嫌な奴というのは、私の思う、その人の一面に、すぎない。
(今、外車に乗っている人で、接する人は、みんな良い感じの人です。)
今まで、私自身、100パーセント、正義の人、100パーセント、悪の人、見た事は、ありません。
みんなそれぞれ、正義と悪の要素を持っていて、その割合が違うに過ぎない。
また、それも、見る人に、よっても違うし、何を基準にするかで変わると思います。
私自身の人生の目的は、人間性を高めるという事なので、いろんな価値観を持つ人が、納得する人になる事だと思います。
理想は、高く、現実は、様々な葛藤を乗り越えて、一歩、一歩、前のめりでいきたいです!(口ばっかしにならないように、しないと。)
この業界に入って、最初の頃は、苦手な患者さんがいたと思う。
私は、人間性が、大事と思って仕事をしてきた。
そんな時、お店で、お昼を食べていると、(アジフライ定食ーここのフライにかかっているタルタルソースが、美味しい。)
建築業の2人が、話しているのが、聞こえて、1人が、「 人柄が良くたって、腕が悪けりゃダメだよな。 」と同僚に言っていた。
その時、私は、嫌な奴といい奴だと、いい奴の方が、好きだが、嫌な奴の造る完璧な家と、いい奴の造る欠陥のある家なら、
いくらいい奴の造るものでも困ると思った。
その時に、人間性と技術の両方がなければいけないと思った。
人間性が、なければ、その先生の治療を、受けたいとは、思わないし、技術がなければ、症状が改善しないし、どっちも大事と思った。
昔は、先生が、偉く、患者さんは、それに、従うという所が、多かった。( 今でもそういう所は、ある。 )
今は、接遇という言葉もあるように、患者さんを、お客様ととらえ、そのお客様に治療というサービスを、提供するタイプが、多い。
私は、昔から、治らない人が、いると、休みの日に内緒で来てもらって、2時間でも、3時間でも、治療をしていた。( ただの自己満足だが。 )
そんな感じで、休みを潰してということが、あったが、あるとき友達と歩いている時、「 松ちゃん、今、女の人とぶっかったよ。睨んでたよ。 」
と言われたが、まったく、自分自身は、分らず。
仕事のオンと、仕事以外のオフが、極端だった。
朝、起きると、一面が、血の海になっていた。( 鼻血だった。 )
そんな生活をして思ったのは、患者さんにとっては、何時間も治療してもらうのは、いいだろうが、俯瞰してみた時、
患者さんと先生のバランスを見た時、この先生は、無理していて、平等では、ないんじゃないか?それは、違うのでは、ないかと思うようになった。
これでは、この先生は、患者さんに喜ばれるかもしれないけど、過労死だなと。
そこで、今の考えは、患者さんと、先生が、平等で、お互いが、無理なく付き合える関係が、理想だと思っている。
今では、性格的に、苦手な患者さんは、いないが、(たまに、失礼な相手に対し、自分の中で、感情の波が、少し動くときが、あるが、すぐ納まる。)
後は、治るか? 治らないか?の問題がある。
いつか、ゴットハンドになった時、私が昔から思っていたのは、患者さんが、辛い症状から解放されると、心に余裕が生まれ、
今までの周りに対しての態度と、(心の余裕の無い状態 )、その後の態度が変わり、
その変化に周りの人のその患者さんに対する態度も変わるんじゃないかと。
昔、膝の悪い患者さんで、いろいろな所に行って治らない方が、来た事があった。
その患者さんが、腕組みをして治せるものなら、治してみろという態度だったので、最初は、私が、やる必要があるのかと思ったが、
( 2分ぐらい心の葛藤があったが。 ) とにかく一生懸命やってみた。
すると、症状が、半分くらいになった。
そうすると、患者さんの感じが変わり、笑顔が出てきた。 ( 人の話を聞く余裕が、出てきた。 )
そんな事もあって、辛い症状があると、本人に影響を与えるんだなと、
また、一方で、病気や、怪我は、何かに気づくサインといわれる。
だから、ゴットハンドになって、その症状が、とれたとしても、本人が、その症状の持つ意味に気づかなければ、
また、別の形で、現れるのでは、ないかと思っている。
ゴットハンドになった時、そこで、見える世界は、どんなものか?
今は、想像もつかないので、楽しみである。 ( その前に寿命が、来るかな。 )
アントニオ猪木が、好きだ!整骨院には、猪木の限定フィギアがある。
猪木さんの凄い所は、借金を何億も背負っても、危ない国に行っても、気にしない強心臓と
その明るさだと思う。
元気が、あれば何でもできる!
猪木が、笑えば、世界が笑う!
普通の人が、暗くなってしまうそんな時でも、笑い飛ばしてしまう!
馬鹿になれ とことん馬鹿になれ 恥をかけ とことん恥をかけ
かいてかいて恥かいて 裸になったら見えてくる
本当の自分が見えてくる
本当の自分も笑ってた
それくらい 馬鹿になれ
猪木さんの言葉は、深い!
私には、これが、非常に難しい!
ちっぽけなプライドが、邪魔をする。
みんな見栄とか、コンプレックスを少なからず持っていると思うが、
ひとつ、ひとつ、その事に向き合っていくと、その先に
自分の本当に大事にしているものに気づくと思う。
そこには、たぶん、幸せに包まれた、笑っている自分がいると思う。
昨日、患者さんで、右の肩が、上に30度しか挙がらないが、三回の治療で、
70度まで、挙がるようになったが、触ってみると、筋の状態は、左よりは、筋肉が、落ちているが、
状態は、スムーズな感じが、したので、これは、脳のプログラミングの挙げるという動作を
忘れてしまっていると思いどうしたらよいか、と思った。
そこで、三つの治療法を組み合わせてみると、水平まで、挙上できるように、なった。
その後、普通に、挙げることが、出来た。
今回は、患者さんが、75才で、10日後が、誕生日という状況で、免許の更新が、あると言われた。
もっと早く来ればと言いながらも、必死で、やったので、うまくいったのだと思う。
仮説だが、どんな治療法でも、いいので、一回脳が、痛くないとか、動くとかを、記憶すると、
症状の戻りが、なくなるんじゃないかなと思っています。
だから、治療を受けて、その時の症状が、無くなって、症状が、戻るときは、脳が、記憶して
ないかもしれない。(真の原因が、追求が、甘い場合を除く)
私の場合は、日々勉強中なので、その時もっとも、私自身が、納得できる事を大事にしています。
ただ、今まで、私自身、治療を考えてみると、その当時の知識、経験からは、
それが、正解しか、考えられなかった。
ただ、それだと、うまくいく時もあるし、いかない時(不確定要素)もある。
不確定要素(よく分っていない)の要素の割合が、最初の頃は、大きかった。
それが、段々といろんな経験をしていくと、不確定要素の割合が、少なくなってる。
ただ、それでも、不確定要素が、ゼロには、ならない。
それは、球体を、平面で、とらえようとしているから難しいのでは、ないかなと思う。
いろんな見方が、出来るといろんな、角度から、球体をとらえる事が、出来るようになるだろう。
それでも、中は、見れない。
中が、MRIのようにみれたとする。
それでも、筋肉の硬ささえ分らない。
治療は、結局は、いかにその物事に対して、深く追求していけるかだろう!